空中庭園6000HIT突破記念センチメンタルグラフティSS
雨路一会(うろいちえ)(2000.02.17)


「参ったな……」
 天気予報で雨が降ると知ってはいたが、ここまで強い事は予報でも言っていなかったし、計算に入れてもいなかった。私の着ているコートは撥水性だが、ここまで強く降られてはあまり意味がない。この季節、四国はそんなにひどい雨は降らないものだが、まあ、物事には例外というものがある。
 大急ぎで雨宿り場を探していると、早速コートの中が蒸れてきた。ということは、背中に背負った撥水性リュックサックの中身も危ない。いかに頑丈にできているとはいえ、あれは水に弱い。どこかに都合良く雨宿りできる場所があればいいのだが……あった。少しばかり大きな針葉樹である。駆け込んで、リュックをおろし、足の間に置く。できるだけ濡らさないようにしなければいけない。
 雨は弱まる気配を見せない。あまりの降りっぷりに、思わずため息が漏れる。すると、全く予想していなかったことに、反応があった。ちょうど幹の反対側である。眉をひそめ、反対側に回る。すると、少女が立ちすくんでいた。学校帰りなのだろうか、私と同じように足下に学生鞄をおいている。今時の高校生には珍しく、髪が長い。腰あたりまである。しかも綺麗な黒でなのである。
 その長い黒髪の一部を、顔の横で結った少女は、雨に濡れたこと以外の何かでやや疲労しているように見えた。今はただ、こちらをじっと見ている。どうやら警戒されているらしい。まあ、無理もないが。
「どうしたんだい?」
 努めて、柔らかく話す。私の場合、見てくれだけだと十分に厳ついからだ。それでも、少女は答えてくれた。
「小鳥が……巣から落ちたみたいで……それで……」
 よく見てみると、少女は両手で何かをそっと包み込んでいる。この強い雨と風で巣から落ちたのだろうか。
「傘は?」
 彼女の側には、ない。
「それが、この子を助けている間に、風で飛ばされて……」
 なるほど。
「家は近いのかい?」
「え?は、はい」
「なら、話は早い」
 そう言って私はコートを脱いだ。それを少女にかけてやる。
「このコートなら少し雨を防ぐことができる、後は君の家まで走るだけだ」
「いいのですか?」
 驚いたように彼女は答える。
「まあ、そのかわりといっては何だが、私もちゃんと雨宿りできる所が欲しい。少しばかりお邪魔していいかな?」
 私がそう訊くと、少女は嬉しそうに、
「もちろんです!」
 と答えた。同時に少し血色が良くなる。
「そいつはよかった。君の名前は?」
「真奈美――杉原真奈美です」

 かなり大きな家だった。屋敷と言ってもいいのかもしれない。聞いてみると、この辺りの土地をまとめて所有しているそうだ。家の中では私と真奈美以外の人の気配はしない。どうやら今日は彼女一人だけらしい。
 とりあえず、彼女は着替え、私は上着だけ居間のストーブで乾かせて貰っている。幸いシャツの替えはリュックにあったので、すぐさまそれに着替え、シャツも一緒に乾かす。
 しばらくすると居間のドアがノックされた。
「あの、よろしいですか?」
 私がどうぞ、と答えると、ドアから真奈美が顔を出した。淡い色のゆったりした私服姿である。
「小鳥の様子は?」
 私がそう訊くと、彼女は綿を軽く敷いた小箱を見せてくれた。その中で小鳥がうずくまって寝ている。
「幸い怪我が無くて、少し休ませるだけで大丈夫みたいです」
「それは良かった」
 彼女の家についた途端、真奈美は寒さに震えた小鳥を私に託すと、廊下を駆けだして、すぐさま薬箱とタオルを持って戻ってきた。再び小鳥を手にすると、タオルでくるんで暖め、薬箱から水薬か何かをスポイトで飲ませる。そこで一段落ついたらしく、彼女はなにやら慌てて私に謝ると(どうも私がいることを忘れていたらしい)、居間のストーブに火を付け、私に貸してくれたのである。
「見つけるのが早かったおかげで、あまり濡れていなかったんです。小鳥って、羽根にある程度の油があるから少しぐらいの水なら弾くことが出来るんですけど、強い雨なんかに晒されちゃうと、水が浸みこんで、急激に体温が下がるんです。もし、完全に濡れていたら獣医さんを呼ぶところでした」
 真奈美の説明に、私は思わず感嘆の声をあげた。
「すごいな。君は医学生志望かい?」
 すると真奈美は驚いたような表情を浮かべたかと思うと、微笑んで、
「いえ、私はまだ進路を決めてなくて……前に本で勉強したんです」
「なら尚更すごいな。知り合いに獣医がいるんだが、以前見せてくれた彼のと君がした処置とはたいして違っていなかった」
「そんな……」
 やや俯いて彼女は照れる。
「どれ、そんな見事なものを見せて貰ったんだ。見物料ぐらい払わないとな。台所、借りていいかい?」
「え? 構いませんけど……何をするんですか?」
「だからね……」
 ある友人曰く、あまりにも似合わないから逆に似合うと、不思議な感想を貰ったウインクをひとつして私は続けた。
「見物料さ」

「すごい――」
 私の『見物料』に対する、彼女の感想はそれであった。
「美味しいです」
「一応これで生活しているんでね」
「あ、そうだったんですか」
 あれから私は台所を借りるとリュックサックに入っていたコーヒー豆を取り出し、台所にある(彼女の家の規模ならあるだろうと、私は予測していた)コーヒーメーカーでアメリカンをふたつ、淹れたのであった。
「どちらにお店があるんですか?」
「広島だよ。平和公園の近くにある」
 と私。
「ところで、コーヒーはよく飲むのかい?」
「インスタントは時々あるんですけど、普段は紅茶かお茶です」
「そうか。たまにはいいだろう?」
「ええ、こんなに美味しいと、なおさらです」
「ありがとう」
 素直な賞賛は、いつ聞いても心地よい。
「あの、どうしてこちらに?」
「ああ、久しぶりに四国を撮りたくなってね」
「とる?」
「そう」
 そう言って、私はシリコンクロスに包まれたものを丁寧に取り出した。本来はそれほど丁寧に扱わなくてもよいものである。むしろ、徹底的に酷使した方がそれにとって幸せだろう。
「それ、なんですか?」
「これかい?」
 そう言って私はゆっくりとシリコンクロスをとる。中にあるのは銀色の古いカメラである。
「これは……」
「ニコンF。ニコンが最初に作った一眼レフさ。わかるのかい?」
「ごめんなさい、ちょっと……」
「いや、気にしなくていい。むしろ知っていた方が驚異だからね」
「そうなんですか?」
 実際には驚異というほどではないが、ごく少数であることには変わらない。
「でも綺麗ですね」
「そうだね」
 彼女は単純にニコンFの磨かれたボディを賞賛したのかもしれないが、実際、直線的で力強いそのデザインにファンは多い。それ以上に頑丈で、確実な動作に私は惚れたのだが。その証拠に、私自身とたいして変わらない時を刻んだ割に、衰えというものを見せない。
 リュックの中からフィルムの入ってる巾着を取り出す。その中にカラーネガが入っているのだ。
 ニコンFを逆さにしてノッチを百八十度回す。裏蓋のロックを解除したのだ。そしてそのまま底板と一緒になった裏蓋をスライドして取り外す。
「蓋がはずれるカメラって、初めて見ました」
 と、真奈美。普段カメラに慣れ親しんでいない彼女でも、普通のカメラは裏蓋が横に開くことくらいは知っていたらしい。
「古い旧いカメラだからね」
 そう言って、私はパトローネからフィルムを伸ばし、先端をスプールという巻き上げ軸に差し込み、一回巻き上げる。再び蓋を取り付けて、巻き戻しクランクを矢印のある時計回りに止まるまで軽く回す。これでフィルムの弛みがなくなるのである。シャッターを切り、フィルムカウンターがゼロになるまで空撮りをする。
 ここまでは、マニュアルカメラ共通のフィルム装填法なのだが、真奈美はずっとそれを興味深そうに見ていた。
「珍しいかい?」
「はい。私ずっとカメラって、フィルムを入れて蓋を閉めるだけだって思っていたから……」
「今は大抵電動だからね。電池を使わない昔のカメラはこうやってフィルムを入れたんだよ」
「電池を使わないんですか!?」
 彼女の声の調子がいささか素っ頓狂に聞こえた。よほど驚いたのだろう。
「そうだよ。何から何まで歯車とゼンマイとバネで動いているんだ」
 私の声は我ながら自慢げになっている。
「すごい……」
 それきり彼女は絶句してしまう。
「私が君くらいの時は、逆に電動化のほうがすごく思えたもんさ。まあ、結果から言うと電動式はその電子部品を作らなくなったら、もう修理することは出来なくなるけど、機械式――電池を使わない形式だね――だったら極端な話、部品を金属の塊から削りだして創ることが出来るから、いつでも修理できるんだ。実はこのカメラは四十年以上前のものなんだよ」
 真奈美は答えない。ただただ驚いている。
「こうなると、カメラの進歩って複雑なものだなと思うよ。まあ、カメラに限らないんだろうけどね」
 そこで真奈美はやっと呪縛が解けたように、表情が変わった。そして物憂げに呟く。
「そうなんですよね。便利だからってどんなに開発しても、結局は自然に敵わない……ここあたりって今よりずっと緑が多かったのに、最近は開発が進んで少なくなって――でも、昔の方がずっと良かった……」
 彼女の気持ちは、よく分かる。私自身、ここ四国が初めてというわけではない。緑の減少が進んでいることは分かっている。同時に、むしろ、ここは少ない方だ、ということも私は知っている。
「大丈夫だよ」
 しかし、それを止めようとしている人達がいる。元に戻そうと努力する人達がいる。その人達の努力で、減少から増大に回復しているところもある。それも私は知っている。
「でも」
「大丈夫だ。君みたいな人達がいる限り、大丈夫だよ。それに、知っているかい?」
 未だ表情に陰がありながらも、首を傾げる真奈美に私は例のウインクをして続けた。
「最近、電池を使わないのがテクニカルだとかで、古いカメラは若い人から市民権を得ているんだ。彼らは最初は興味本位でそれらとつき合って行くんだが、次第に愛着とそれに込められた精神を受け止めて使いこなすようになる。どういう事だか分かるだろ?」
 少し考えた後、真奈美は気付いた。それまであった陰が綺麗に消える。
「つまり、自然に触れれば、しっかりと自然を受け止めてくれる人達がいる……そういうことですね」
「そう」
 頷く私。
「だから大丈夫だ」
「はい!」
「よし、そのまま!」
 突然のことで不思議そうな表情の真奈美に、私は笑いかける。
「今の表情、とても良かったんだ。出来れば写真に収めたいんだが、いいかい?」
 答える代わりに、彼女は先ほどに劣らない笑顔を向けてくれた。

「写真というものはね、その瞬間を時間の流れから切り取るものなんだよ」
「切り取る?」
「そう、そして自分の記憶を鮮明にするんだ」
「鮮明、ですか?」
「そう、撮ったその時のその記憶を思い出させてくれるのさ」
 あれから彼女を三回撮り、彼女が私を二回ほど撮った(操作を教えた後、露出の指示を出しただけで彼女はどうにかニコンFを使えるようになった。十分に素質がある)後、ささやかな写真理論講座が始まった。講師は私、生徒は真奈美一人。本当にささやかなのだが、私は面白かったし、真奈美も面白かったと思う。そしてしばらくすると聴講生が現れた。件の小鳥である。
 最初に気付いたのは言うまでもなく真奈美であった。突然弾かれたように立ち上がると、小鳥の眠っていた小箱に急ぎ足で向かう。
「やっぱり!目が覚めたのね」
 後を追って後ろから覗いてみると、小鳥は丁度目を開けて、モゾモゾと身じろぎしたところだった。そして軽く囀る。
「お腹は……あまり空いていないみたいね」
 まるで小鳥のその囀りを理解したかのように真奈美は呟くと、水の入った容器を小箱の側に置いた。籠の中の小鳥によく用いられる水入れである。すると今度は小鳥がそれに応じて、立ち上がると両足で跳ねて移動し、水を飲み始めた。
「もうすっかり回復したようだね」
「はい!」
 まるで自分のことのように、嬉しそうに真奈美は頷く。
「でも、思ったよりずっと早く元気になって良かった……」
 小鳥が囀りを持ってそれに答える。と、突然羽ばたいたかと思うと、真奈美の肩の上に乗り移った。
「この子、人に慣れているのかしら?」
「いや、君だからだろう」
 どう見ても、この小鳥は野鳥である。
「きっと君の自然が好きだという想いを、小鳥が受け取ってくれているのだろう。どんなに腕のいい獣医でも、その気持ちがなければ動物は決して、心を開かないからね――さっき話した友人の獣医の話がそう言っていた」
「そうですか……」
 そう言うと、真奈美は小鳥に向かって尋ねるように首を傾げて見せた。小鳥は囀りでそれに答える。
「あ……そうだって言っています」
「だろう? 丁度いい、皆で記念撮影といこうか」
 私はリュックから小型の三脚を取り出した。それを展開させると雲台という取り付け台にニコンFを取り付け、距離と露出を調整する。
「みんなって、どうやって撮影するんですか?」
「ん? ここを見てご覧」
 シャッターボタンの下、ボディー前面にあるレバーを指さす私。
「さっきも言ったとおり、このカメラは歯車とゼンマイとバネで動いているんだ。この場合はゼンマイだね」
 そう言って、そのレバーを九〇度ほど回し、レバーの下に隠れていた小さなボタンを押す。すると、ジィーを心地よい小さな音と共にレバーが戻っていき、カチリと音を立てて止まった。
「これで大体五秒。最大で一〇秒だ。さ、撮ろうか」
 真奈美に椅子に座って貰い、微妙な設定を終えると、フィルムを巻き上げて、先ほどのレバーをいっぱいに回す。
「行くぞ」
 やや緊張した声になってしまった。実は未だにこれが苦手なのである。タイマー作動の小さなボタンを再び押す。
 ジィーと音が聞こえると共に、私はわたわたと真奈美の座っている椅子の側に立った。
 五、四、三、二、一、――カシャリとシャッターが落ちる。
 私は思わずほっと息をついた。
「どうしたんです?」
 不思議そうに、そして面白そうに真奈美が聞く。
「いや、昔からこれが苦手でね。何故かアクシデントに見舞われてよく失敗してたんだ。そんなにおかしかったかい?」
「いえ、そんなことはないです……け……ど」
 どうもおかしかったらしい。途中で思い出したのか、懸命に笑いをこらえようとしている。
「ご、ご、ごめんなさ……」
「い、いや、無理しなくて……」
 今度は私がつられて笑ってしまった。

 雨が去り、雲が去り、夕日がやってきた。小鳥が去り、私も去らなければならない。
「ほら、もう大丈夫だから……気を付けて帰ってね」
 肩から下ろして小鳥を抱いていた真奈美が、小鳥を拾った場所でそっと両手を開く。小鳥は一声高く鳴いて飛び立つと、私達の頭上を一周して近くの林の方へ飛んでいった。その姿が見えなくなるまで二人で見送る。しばらくそのままでいると、真奈美がポツリと呟いた。
「やっぱりあの子……」
「どうかしたのかい?」
「前に同じように小鳥を助けたことがあるんです。あの子と違ってすごく弱っていて、何日か介抱してあげた後、元気に飛び立っていったんですけど、その小鳥とあの子、同じ種類なんです。だから、もしかしたら……」
「きっとそうだろう」
 何か通ずるものがあって、私はそう保証した。
「さて、私もそろそろ行こうか……おっと、そうだった」
 ポケットの中に、彼女に渡すものがあった。
「ほら、これを君にあげよう。街の方で現像するといい」
 そう言って私は、先ほど撮影に使ったカラーネガフィルムを放ってあげた。真奈美はおっかなびっくりそれを受け取る。
「ついでだ。これも貰ってくれ」
 そう言って私はマッチの箱を続けて放った。それには広島にある私の店の住所と簡単な地図がある。俗に言う広告マッチだ。
「もし広島に来たら、ここに来てほしい。コーヒー一杯サービスするよ」
 真奈美はそれを受け取ると、
「いいのですか? せっかく撮ったのだからあなたが持っていたほうが……」
 と訊いてきた。
「なに、珈琲屋というのは結構暇なものでね。お客が来ないと退屈で退屈でしょうがないんだ。だから、いつ君が来るか、いつあの時撮った写真を見ることが出来るかと楽しみにしていれば、気が紛れるんでね」
 すると彼女は微笑んで、
「分かりました。いつか必ず広島に行って、コーヒーを御馳走になります。だから、今度、四国に来たら私の家に尋ねてきて下さいね」
 私は大きく頷いた。

 ……彼女の家から市街地に向かう坂の中腹で、私は大きく伸びをした。別に彼女の家が窮屈だったわけではないが、つい何かを楽しみに待つときの癖で伸びをしてしまう。当分は本当に彼女が私の店を訪れるのを楽しみにすることが出来そうだ。

Fin

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