「出来た……」
 夕闇に沈む戦場跡と化した美坂家の台所で、美坂栞は額の汗を被っていた三角巾で拭いつつ、そう呟いた。
 相手はかなりの難敵であった。
 普段は、常温のものをそのまま材料として使っている栞である。今回も、出来ればそうしたかったのであるが、材料が材料であったため、それが出来なかった。
 そう、チャンク(塊)にしてもチップ(粒)にしても、そのまま練り込めば良かったのであるが、それだと、どうしてもその材料は引き立て役になる。故に一体化させようとしたところで、思わぬ障害に出くわしたのだ。
 融点、すなわち固体が溶ける温度である。溶かせば熱い。しかし出来上がりは冷たくしたい。
 そこから、栞の挑戦が始まった。
 その材料、溶かすのはいいが冷やした時表面が白くなる。成分であるココアバターが浮き出るせいで、それは見た目もそうだが、風味を大きく損ねる。それを止めるため急速に冷やす必要がわかったのは、試作品をみっつほど作った後だった。
「うん、美味しいです……」
 そして改良に改良を加えたななつめ、ついに栞は自身が納得出来るものを作り上げることが出来た。
 チョコレートアイスである。
「後はこれを――ああっ!」
 そしてこの瞬間、新たなる難敵が立ちはだかったのであった。



『美坂家のバレンタイン』



「お姉ちゃん……ちょっといいですか?」
 翌日の早朝、美坂家。やたらと陰鬱な表情で朝食を作っていた姉の香里に、栞はそっと尋ねた。
「なに?」
 目に隈こそ無いが、随分憔悴した貌で、香里は答える。そういえば、昨日はだいぶ遅くまで家に帰ってこなかった。確か家を出る時に、名雪のところへ――と言っていたので、水瀬家に居たのは確かなのだが……。
「栞、お姉ちゃんはね……今軽く傷心気味なのよ」
「大体想像付きます。チョコレート作っていたんですよね」
「な、なんで――なんで、そう思うのよ」
「え? 違っていたんですか?」
 ぐ。と香里の声が詰まった。普段は妹をからかう事など簡単にできてしまう香里であるが、ちょっと調子が悪くなると、その立場が逆転することが有る。ちょうど今が、そのようであった。
「名雪さんから分けてもらえば良かったじゃないですか」
「私は貴方の姉よ。兄じゃないの」
 要するに、女の子であると強調したいらしい。
「でも……」
「そんなことより、相談事が有るんでしょ? 聞いてあげるわよ」
 フライパンを手早く返して、香里はそう言った。次の瞬間には、ふたつの皿の上にベーコンエッグが乗っかっている。
「あの、強力な保冷用の容れ物ってありませんか?」
「保冷用の? アイスバックのこと?」
「はい。そんな感じで、もっと強力なものです」
「何を入れるのよ」
「アイスです」
 焼き上がったトーストにバターを塗っていた香里の手が、大きくずれた。
「あのね……それなら、発泡スチロールとかでも良いでしょう?」
「駄目ですっ! 理想の柔らかさを実現出来たんですから……っ」
「そ、そう――」
 いささか押され気味に、香里。
「大体、どこに持って行くつもりなの?」
「学校です」
 ちょうど佳い具合になっていた紅茶からティーバッグを引き出そうとしていた香里の手が滑り、ティーバッグは高く舞い上がった。そして、床に落ちる前に拾い上げられ、三角コーナー行きとなる。
「あのね栞。学校でアイスを食べたいのなら、市販ので我慢しなさい」
「私が食べる訳じゃないんです」
「じゃあ誰が食べるのよ?」
「そもそも普通のアイスじゃないんです」
「何だって言うのよ」
「チョ、チョコレートアイスです……」
 香里の手が――飛びもしなければずれもせず、ぴたりと止まった。
「――それ、どれくらいの大きさなの?」
「ええと、これくらい……です」
 そう言って、栞は指でシングルコーンのアイスを描いてみせた。
「意外と小さいのね」
「義理ですから……」
「そう」
 瞬間、香里の目に光が灯った。絶対的な姉である時に見せる、鋭い輝きである。
「わかったわ。お姉ちゃんに、任せなさい」
「それでこそですっ」
 栞は、その光の意味に気付かなかった。



 それは、鈍い銀色の光を放っていた。
「ドイツはドランシ=ハンス社製保冷耐熱容器、P−IV型よ。マイナス1度なら最大10時間保つわ」
 朝食の後、納戸の奥をごそごそと漁っていた香里が引っ張り出したのが、それであった。
「す、すごいです……」
 その重厚さに、栞が息を呑む。
「ああ、もう冷却を始めたから外はともかく中身に触れちゃ駄目。凍傷を起こすわよ」
「は、はい!」
「とにかく……」
 中身を入れた後に重々しい音を立てて蓋を閉め、さらに密封ロックをかけながら香里は言う。
「これなら貴方の言う理想の温度を保てるわ。後は渡すだけよ」
「あのお姉ちゃん、これちょっと重くありませんか?」
「女の子でしょう? 頑張りなさい」
「……はいっ!」
 明らかにオーバースペックであることに、栞は最後まで気付かなかった。



■ ■ ■



「行ってきます、お姉ちゃん!」
「行ってらっしゃい。私は後から行くわ」
 そう答えて、香里は耐熱容器の上にラッピングをした包みを提げた、妹を送り出した。
 そう、耐熱容器は大きい。それにラッピングを施せば、もっと大きく見えるだろう。
 そしてそれは、どう見たって本命に見えるだろう。
 顔を真っ赤にした妹が差し出すチョコに、おそらく貰い手であるあの朴念仁君はどう対応するだろう。其処まで考えて、香里は大きく頭を振った。その隣にいるとある人物を連想してしまったためである。
「はぁ……」
 どうやっても事態が動かないのはわかっていたが、大きくため息をつく。
 昨晩水瀬家で名雪から後片付けはわたしがやっておくからと言われたが、其処に残ったものはどう見てもチョコレートではなかった。
 つまり、香里はチョコレート造りで妹に先を越されたのである。
 そのことが嬉しくもあり、悔しくもあった香里は、ついああいったものを妹に渡したのであるが……、
「まぁ、いいわよね」
 実質問題として、栞が言った条件に適う容器は、あれしかなかった。これもまた事実である。
 とりあえず、栞がお気に入りのチョコレートでいいかと思い、香里は席を立ったのであった。
 まずは、学校より先に、コンビニである。



Fin.







あとがき



   栞とさおり……ゲフン! 香里でした。
 大昔ですが、業務用だかなんだかの保冷容器を見たことがあります。
 それは何というか、チョバムアーマーを着込んだハンバーガーの容器みたいな形をしていました。
 あんなんでアイス入れたら面白いだろうな……というのが、今回の話の根幹だったりします。
 さて、今回の話ですが、一昨年のバレンタインの話とリンクしていたりしてます。
 香里が一体何を、誰に渡したのか、それはそちらの方を見てみてください^^。

 さて次回ですが……何にしようかな……。

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