『里村茜の不覚』



「あのさ、お前」
 昔ながらの水銀式体温計を眺めながら、折原浩平は諭すように言った。
「ミイラ取りがミイラになるって言葉、知ってるか? ――微妙に今回のケースとずれているが」
 数値は37度8分。高すぎるという訳でもないが、平熱という訳でもない。
「どちらかと言うと、医者の不養生でしょう……これも微妙にずれていますけど……」
 布団の中で、里村茜が答える。頬に朱が散っているのは先程はじき出された体温の保有者であり、呼吸がやや荒いのも、さらに言うと声が若干浮ついていたりするのもまた、そのためであった。
 浩平の部屋の中である。
 茜は浩平のベッドの中におり、浩平はその傍らで、氷水を張った洗面器から取り出して絞ったタオルを、そっと茜の額に乗せている。
 何故、茜がわざわざ浩平宅で寝ているのかというと、熱が出ているのに気付かないまま、浩平を起こしに来たためであった。
「まったく、吃驚したぞ。目を覚ましてみりゃ顔は赤いはふらついているは」
「ごめんなさい……」
「いや、いいって」
 そう言いながら、布団をぽんぽんと叩く浩平。
「ちょっと学校に電話いれてくるわ」
「すみません……」
「だからいいって」
 そう言って、浩平が階下に消える。
 その足音が廊下を渡って行って、完全に聞こえなくなったところで、茜は小さくため息をついた。
「また介抱されるなんて、思ってなかったな……」
 一人呟く。
 着替える余裕があったので、浩平の叔母のパジャマを一着、拝借している。しかもそれは、あの大雨に日に、やはり浩平に助けられた時に着せてもらったパジャマであった。
 ため息を、もうひとつつく。
「また、助けてもらったんだ……」
 本人は気付いていないが、口の端には微笑みが浮かんでいた。
 と、再び階下から足音が現れ、それはそのまま階段を上っていき、浩平が部屋に入って来た。
「ヒゲに伝えておいた。お大事に、無理するなってさ」
「ありがとうございます。……そのまま、伝えたんですか?」
「まさか。一緒に登校してたら、調子が悪くなったって言っておいた」
「……ありがとうございます」
 そんなに茜にお礼をされると調子狂うな……そんなふうに浩平は答え、そのまま自分の机の椅子に背もたれを逆にして座った。
 そしてそのままじっと茜を見つめ始める。
「……浩平、学校は?」
 熱の他に気恥ずかしさで顔を赤くしながら、当然のことを訊く茜。
「ああ、俺も残る。ヒゲには俺も調子悪いから休むって言っておいた」
 そして、ちゃんと里村を見てやれよと言われた浩平である。無論そのことは茜には言わない。
「……駄目です」
「風邪引いている茜をそのままにできないだろ。第一此処俺の家だし」
「私の家の――」
「ああ、ヒゲと一緒に柚木にも連絡つけておいた。こっちで上手くやっておくってさ」
「――どうやって詩子に?」
「いや、ふつーにヒゲの隣に居たらしいから、そのまま代わってもらった」
 校内のどこかにいるだろうから、呼び出すなり伝言を頼むなり考えていたんだけどな、と浩平が続けると、茜は苦笑交じりに、
「……そうですか。詩子らしいです」
 と言って頷く。
「ま、そういう訳だ。観念して看護されてくれ、茜」
「わかりました。看護されます」
 と、茜。
「でも見つめられたままだと恥ずかしいので、時々様子を見る、に留めてください」
「……やっぱそうだよな」
「当然です」



■ ■ ■



「――む」
「?」
「37度6分」
「…………」
 2分しか下がっていなかった。
 昼過ぎのことである。砂糖たっぷりの牛乳オートミールの方が良かっただろうが、生憎作り方を知らなくてな――と謝りつつ卵とじのお粥を持ってきた浩平に対し、茜は苦笑しつつもありがたく受け取った。いくら甘党の彼女であっても、こういう時はお粥のようなさっぱりしたものの方が好ましかったのである。
 そして、その後で熱を計り直してみたのだが……。
「もう少し寝てないとまずいだろうな」
 と、体温計を振りつつ浩平。
「駄目ですか?」
 と、上目遣いに茜。
「ああ、駄目」
 言外に、起きていていいのかと言う意味を汲み取り、浩平はそれでも駄目出しをした。
「早く、熱を冷ましたいです」
 今度は伏し目がちに茜が呟く。
「気持ちはわかるが、寝てろって。な?」
「でも……浩平に迷惑がかかります」
 途端、浩平の眉が少し寄った。しかし茜は彼の方に視線を向けていないので、それに気付いていない。
「俺は、別に迷惑だと思っていないぞ……」
 と、頭を掻きながら浩平。だが、何か閃いたかのように掻く手を止めると、
「……そうだ。熱を冷ます特効薬があるんだが、それ使ってみるか?」
「特効薬……ですか?」
「おう。ただ、使い方がちょっと難しいんで、俺がサポートするかもしれんが」
 飲み薬に手伝いが必要なだというものは、見たことも聞いたこともない。だが、すぐに下がるのであれば……、
「お願いします」
 と、茜は頼んだ。
「よし、ちょっと待ってろ。すぐ探してくるから」
 ささっと階下に降りて行く浩平。
 茜はそれを見送り……次いで、視線を天井に正対させる。
 それにしても、手伝いが必要な薬ってなんだろう。
 おそらく塗り薬か何かではないだろうか。と、茜は頭の中で結論付け、余程のことでなければ浩平に手伝ってもらおうと思った。
 と――、
「あったぞー」
 階下でそんな浩平の声が響き、
「お待ちどう!」
 数秒で部屋に戻って来た。微妙に呼吸が粗いところを見ると、階段を一段飛ばしで上がって来たようである。
「浩平、何もそんなに焦らなくても……」
「いや、やっぱりこういうすごいのはすぐに使わないとな」
「……そんなにすごいんですか?」
「おう、効き目抜群だぞ」
 そう言って浩平は胸をそらし、ついでズボンのポケットに手を突っ込むと、勿体振ってそれを取り出して見せた。
「じゃじゃーん!」
 それは、茜にとって、見たことのない変わった形をした錠剤だった。普通の円盤でも、半円盤型でもなく、雫状になっている。いや、引き伸ばした五角形と言った方が正確か――。
「浩平、それは……」
 茜が問うと、浩平は得意そうにそれを掲げて、
「The・座薬だ!」
 ――つまらない洒落だった。
「嫌です」
 熱による浮ついた声すら消し去って、きっぱりはっきりと茜。
「良く効くぞ。すぐに熱が下がる」
「それでも嫌です」
 キッと睨むように浩平を見る茜。布団の中なので浩平からは見えないが、パジャマのズボンをしっかりと押さえていたりする。
「別に俺が手伝うとは言ってないぞ」
「私ひとりで使えるものでもありません」
「うん、だからまぁ、どのみち俺が手伝う訳だが」
「それだったら浩平にずっと看病してもらっている方がいいです」
 それ以外は許さない。言外にそんな雰囲気を漂わせ、茜は断言する。すると浩平は冷静に、
「――その言葉を待っていたぜ。茜」
 と言ってニヤリと笑った。
「……ずるいです」
 のせられた恥ずかしさで、布団を口元までずり上げて茜。
「要は俺の口車に乗っかるほど、調子悪いってこった」
 と、浩平の反論。なるほど、一理ある話である。
「というわけで、堂々と迷惑をかけてくれ。俺はミジンコの痴話喧嘩ほどにも気にしないから」
「……わかりました。では早速――」
「ん?」
「今ので汗かきました」
「う、悪ぃ……」
「だから――」
 茜はゆっくりと起き上がると、
「汗、拭いてもらえませんか?」
 そう言って、パジャマのボタンをひとつ外す。
「いっ……!?」
 ピカソの絵のような表情で、浩平。
「お願い、します」
 そう言って、額に乗せていたタオルを氷水に浸け、固く絞って浩平に手渡す。
「え、あ、いや、マジで?」
「――マジです」
 ボタンを全部外して、浩平に背を向けて、そして一瞬時計の文字盤を読み取り、茜はパジャマの上着を脱いだ。
「――お願いします」
「お、おおお、おう……」
 浩平がゆっくりと手を伸ばし……、
「やっほー。茜、元気? って今風邪引いているんだから『元気?』は変だよね」
 唐突に、実に唐突に柚木詩子が部屋に入って来た。
「柚木さん、浩平と里村さん部屋に居た?」
 その後を、長森瑞佳が続き、
「なんか変なことされてないでしょーね、里村さん」
 最後に七瀬留美が入って来た。
 当然三人とも、背中をはだけた茜とそこに覆いかぶさるようにしている(ように見える)浩平に目が止まる。
 ――やべえ。
 某ノートに、自分の名字と浩の字まで名前が書かれたことを浩平は自覚した。
「あ、もしかしてお楽しみ中だった? ゴメンネ」
 ストライークッ! 浩平は危機・1を脱出した!
「あ、えらいねぇ、浩平。女の子は汗で臭うの嫌いだから、ちゃんと拭いてあげてね」
 ストライクツーッ! 浩平は危機・2を脱出した!
「……ソノママ、シネッ」
 カッキーンッ! ホームランっ! 浩平は危機・ファイナルを脱出できなかった!
「残念! 俺の冒険は此処で終わってしまった!」
 野球とRPGを混ぜたナレーションを打ち切って、浩平が叫ぶ。
「そのまま人生も終わってしまえっ!」
 続いて、留美が無駄のない正拳付きのモーションに入った。
 ――とてつもなく景気の良い、打撲音が部屋に響く。
 それを、詩子は笑いながら見送り、
 気が晴れた留美は素早く拳を収め、
 ゴトッと床に沈んだ浩平を視界の隅に収めていた瑞佳は、
 パジャマの上着を着込みながら、茜が小さく舌を出していたのを、確かに目撃したのであった。
「里村さん……」
「少し、やり過ぎました」
 と、瑞佳にも背を向けて――それでいて声は瑞佳にだけ聞こえるように――ボタンを留める茜。
「浩平が目を覚ましたら、謝ります」
「……うん、そうだね」
 謝る謝らないの問題じゃねー……。辛うじて意識の残っていた浩平がそうぼやく。
 だがそれは全員の耳に届かず、結果として黙殺されたのだった。



Fin.







あとがき



 何か久しぶりに茜を書きたかったので書いてみました。
 後に必ずヒロインが倒れるようになりますが、ONEで本編中に倒れたのは意外にも茜なんですよね。うーん、ちょっと吃驚です。
 ちなみに、私自身は浩平が引っ張り出した薬にお世話になったことはありませんw。
 もっと危なっかしい医療器具とかを体験したことがありますが……間違っても茜に電流を流すとかそういうシチュエーションは怖いだけなのでやめました。
 というか、本当にそれで熱下がるのかな……; 大分前の話なので今となっては疑問の嵐です。
 
 さて、次回はまたCLANNADに戻ります。ONEの方のSSとしては……あ、七瀬のアレがまだですね;

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