開け、夏の扉(2003.06.21)




 連日降り続いている雨は、今朝になっていよいよその勢いを増してきたようで、それを証明する雨音と目覚まし時計のベルとの不協和音で、私は目を覚ました。
 ぐっしょりと濡れている身体は、おそらく湿度のせいだけではないだろう。ただ、その原因となった夢の内容は思い出したくなかった。
 ……だいたい、見当がついていたから。
 私は、自分でもわかるぐらいに不機嫌な顔で目覚まし時計を止めた。
 寝苦しかったのだけははっきりと覚えている。連日連夜の湿気に加え、徐々に蒸し暑くなってきている。

 結果はわかっていたが、私はカーテンを引いて外を見た。
 雨に濡れた景色を見ることになると思っていたが、逆に煙っていてよく見えなかった。
 晴れる様子は、全くない。だけれど、気温の高さが湿度による不快感を助長させているのが嫌でもわかる。

 私は、小さくため息をついた。


 季節は、夏になろうとしている。
 浩平は、まだ帰ってこない。



 いつもの通り、遅刻になるかならないかという時間までいつもの場所で過ごして、私は校門をくぐった。
 肩や袖はそうでもないのに、靴だけ濡れそぼった私に、いぶかしげな視線を送る人はもういない。私は、その靴を下駄箱に入れて上履きに履き替える。いくら湿気がひどくても、帰ることには乾いているだろう。
 教室に入ってみると、すでに暑さに参っているクラスメイトがちらほらと居た。
 二、三人と挨拶を交わして、自分の席に座る。
「アッツ〜」
 すぐそばで、七瀬さんが茹だっていた。
「もう夏だねー」
 下敷きを団扇替わりに使って、長森さんがぼやいている。
「里村さん、暑くない?」
「暑いですよ」
 と、私は七瀬さんに答えた。嘘ではない。現に制服の下が仄かに汗ばんでいる。昼前には私も、下敷きのお世話になっているだろう。
「うーん。なんか里村さんって、暑くなさそうに見えるのよね……」
 参りきった声でそういう七瀬さんに、私は少しだけ悪戯心を交えて答えた。
「心頭滅却すれば、火もまた涼しと言いますから」
「でも暑いんでしょ」
「暑いです」
「もしかして……、」
「やせ我慢です」
 長森さんが、小さく吹き出した。
「なによ〜」
 七瀬さんが頭だけ動かして長森さんを見る。
「んー、なんか。懐かしくって」
「懐かしいって、なにが?」
「……うーん、なんだろうね?」
「そういうものなんですよ」
 話の流れをうち切るように、私はそう言った。
「人って、意外と忘れやすいんです」
「そうかしら?」
「そう――かもね」
 二人の返事には答えずに、私は窓から外を見た。後から二人が同じように外を見ているのが、何となくわかった。
「もう、夏なのね」
 姿勢を正して、七瀬さんが言った。
「これからどんどん暑くなるよ」
 と、長森さん。
「暑く、なりますね」
 と、私。ただ、頭の中では別のことを考えていた。



 あれほど止みそうになかった雨は、昼になるとぱったりと止んだ。
 昼休みはここしばらく利用していなかった裏庭を使おうと思い――とても座れないことに気付いて、屋上に出ることにした。あそこなら、多分どうにかなるだろう。
 昼食を一緒に取ろうと長森さんが声をかけたが、私は丁寧に断り、廊下に出た。
 空が、みるみる晴れていく。廊下の窓から、十分にわかる。
 なにか、急かされるものを感じて、私は屋上へと急いだ。いや、『なにか』ではない、それは期待だ。あいつが帰ってくるかもしれないという期待だ。
 気がつけば、息も切らさんばかりに走っている。


 果たして、そこには誰もいなかった。


 弁当箱の中身は、奇跡的に原型をとどめていた。思った通り、校舎から屋上に出る時にある一段だけの階段は全く濡れておらず、私はそこに腰掛けて昼食を取った。
 ……何を期待したのだろうか、私は。いや、何故期待したのだろうか。
 あいつが居なくなってこのかた、帰ってきてほしいという想いはあったものの、帰ってくるかもしれない言う予感を抱いたことはなかった。それは、私がずっと昔に使い果たしたものだから。なのに、何故私は今になって使い果たしたはずのそれに縋ったのか、これっぽっちもわからない。
 雨が止んだからか、雲が散って行き始めたからか、まさか、そんな……。

 ふと、顔を上げた途端、強い照り返しが私を射った。思わず目を瞑り、そのまま上に顔を向けて目を開く。

 ついに、雲がひとつも無い空になっていた。

 ……そうか。
 私は確信した。
 季節が変わろうとしているからだ。春が終わろうとしており、夏がぐんぐんと迫ってきている。それを証拠づけるようにある、どこまでも高く蒼い空。
 私は弁当箱を片づけてゆっくりと立ち上がった。そのままゆっくりと歩き、屋上の真ん中あたりまでくる。
 そこで、私は大きく背伸びをした。

 開け、夏の扉。

 私は、右手をかざして空を見上げる。
 この夏こそ、帰ってくると信じて。たとえ夏が過ぎて、秋が過ぎて、また冬が来ても、帰ってくると信じて。
 ただ待つだけじゃない。帰ってくることを信じて、私は待つ。あいつはきっと、季節の変わり目に帰ってくる。


Fin.






あとがき


 シリアス書きたい病に侵されて書いたのは良いのですが、ごめんなさい、予告の長森ではなくて茜になってしまいました。
前の春の時もそうだったので、夏も長森と思ったりもしたのですが、夏の前にある季節ということと、連日の雨と湿気で茜になりました。いや、湿気は関係ないのですが。

 さて、次回こそ長森で肩の力が抜けるような話を書いてみたいです。いや、予告した以上書かないとなw

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