――夜。
 廊下を歩く微かな足音に、国崎往人は目を覚ました。
 明かりの消えた神尾家、その居間のことである。
 最初はこの家の家主であり、深夜まで仕事で忙しい晴子が帰ってきたのかと思ったが、違う。廊下を歩く足音の後に、玄関を開け閉めする音が響いてきたからだ。つまり、家から帰ってきたのではなく、家を出たのである。
 それに寝ぼけていたせいで忘れていたが、今日晴子は比較的早めに帰ってきて、いつものように深酒し、そしていつものように酔いつぶれて、今は国崎往人の目の前でちゃぶ台に突っ伏し眠っている。
 では、今の足音の主は。
 ……観鈴?
 再び戻ってきた眠気に身を委ねつつ、国崎往人は目を閉じた。



『国崎往人と月の浮かぶ海』



「はぁ!? 観鈴が夜家を出た?」
 寝起きのせいか、素っ頓狂な声で、晴子はそう言った。
 翌朝。昨日のことが気になったせいか少し早めに目を覚ました国崎往人は、未だにちゃぶ台で寝ていた晴子を揺り起こして、昨夜の顛末を知らせたのである。
「……いままで無かったで、そんなん」
 起きた当初は不機嫌そうだったが、事態を察して真面目にそう答える、晴子。
「そうか……」
 当の観鈴はというと、まだ自室にいるようである。この時間帯であれば、学校の制服に着替えているのであろう。
「何なんだろうな。少しばかり気になるが」
「せやな、こんな町でも夜のひとり歩きは危ないで……。居候、あんた様子見てきてくれへんか?」
「俺が?」
「せや。うち夜遅いやろ、寝付いたあと観鈴が居のうなったて探しておったら、朝になってまうかもしれへんやないか」
「……本音は?」
「お酒が飲めないのは嫌や」
 はっきりと言う晴子であった。
「お前な――」
「ま、あまり呑まへん居候にはわからんやろな」
 呆れる国崎往人に晴子はからからと笑うと、不意に真顔になって、
「それにな――これは居候が面倒みた方がええような気がするんや」
「なんでまた」
「乙女のインスピレーション、やな」
 きりっとした貌で、晴子はそう言った。
 もう本気で言っているのか、ふざけて言っているのか判断できない国崎往人である。



 ――その日の、深夜。
「……む」
 微かな足音で、国崎往人は目を覚ました。
 いつものように居間にいるが、いつものように横になっては居ない。すぐ動けるように、壁に背を預け、座る形で休んでいたのである。
 ちなみに晴子は自室で眠っている。国崎往人がすぐ動けるよう、配慮してくれているようであった。
 気配を消して静かに立ち上がり、そっと気配を探る。
 足音は玄関の方へと進み、やがて微かに玄関の戸が開閉する音が響いてきた。やはり、外に出ているらしい。
 足音を消して、こちらは玄関の音すら立てずに外へと出る。
「海の方か……?」
 足音が聞こえてくる方向を確認して国崎往人はそう呟き、そっと門から顔をだしてその主を確認する。
 その後姿は間違いない。神尾観鈴本人であった。
「何処へ行くんだ、あいつは……」
 特に何かを持っているわけでもない。服装も普段着である。
 また、特に悩んでいる様子もなく、急いでいる様子も無い。ただただ普通に歩いている。深夜でなければ、普通の散歩と言った趣であった。
 街灯が少ないため夕闇が迫ると普通に薄暗いこの町だが、今宵は月が出ているため後をついていくのにそれほど苦労はしなかった。
 やがて、観鈴は武田商店を抜け、彼女のが通う学校へと至り、その向かいにある堤防へと辿り着く。
 その向こうにあるのは、小さな砂浜であった。
「海か――?」
 堤防に身を隠しながら、国崎往人はそっと砂浜に居る観鈴の様子を伺う。
 観鈴は砂浜で立ち止まり――。
 着ていたワンピースを、いきなり脱ぎ始めた。
「なっ!」
 慌てて堤防に身を伏せる国崎往人。
「あいつ、一体何やってるんだ……!」
 だが、いつまでもそのままでは居られない。
 国崎往人は一念発起してそっと堤防から顔を出し――観鈴が服を脱ぎ終わるのとほぼ同時のところに出くわした。
 結論から言うと、
 観鈴は、服の下に水着を着込んでいたのである。
「驚かせるなよ、まったく……」
 残念なような、安心したような、そんな複雑な想いを抱く国崎往人であった。
 観鈴はというと、脱いだ服を丁寧に畳み、砂浜へと置いた。そして静かに、海へと入っていく。
 丁度、満月が雲ひとつ無い夜空に浮かんでいた。観鈴は、その月に向かいように、ゆっくりと海の中を歩いていく。
「……泳ぎたいのか?」
 堤防の陰から様子を見続ける国崎往人。
 そんな彼に気付くはずもなく、観鈴はなおも歩みを進め、月が海に写る位置で立ち止まった。そして静かに月を見上げている。ゆっくりと両手を広げ夜空の月と星を見上げるその光景は、絵画のようであった。
 観鈴は今、月明かりと海、その両方を楽しんでいるのであろうか。
「…………」
 思わず、国崎往人も観惚れたときである。
「わっ――」
 唐突に、観鈴が海の中で転んだ。
「観鈴!」
 今度は放ってはおけない。
 国崎往人は堤防の陰から飛び出すと、着ていたTシャツを脱ぎ捨て海へと駆け込む。
 幸いにして海は凪いでいたし、それほど深い場所でもなかった。おかげで、国崎往人は比較的迅速に観鈴を助け起こすことが出来たのである。
「ゆ、往人さん!?」
 助け起こされるなり驚いた声で、観鈴。
「何しているんだ、こんなところで」
「え、えっと……」
 国崎往人の腕の中で、そっぽを向く観鈴。こんなところを見つかったのせいか、或いは先程までのことを見られていたのだと気付いたのか、その頬がたちまちにして赤くなる。
「ちょっとだけ、泳ぎたくなったの……」
 それでも、観鈴はちゃんと答えた。
「それなら昼間に俺達を誘えばいいじゃないか」
 多少呆れた様子で、国崎往人はそう言う。
「でも往人さん忙しそうだったし、お母さんはもっと忙しそうだし」
 確かにそうであった。ここのところの国崎往人は、あちこちから依頼される細々としたアルバイトで忙しくはあったのである(人形劇の方は相変わらずで、寂しいものがあったのだが)。
「馬鹿、そういうときは遠慮しなくていいんだよ」
「でも……」
「俺は必ず一緒についていってやる。晴子だって、きっとそうだ」
「本当?」
「ああ、本当だ」
「……ありがとう、往人さん」
 安心したように、観鈴が国崎往人の腕に身を委ねる。そして国崎往人の二の腕に頬をくっ付けたところで何かに気付いたような貌になり、
「あ、あのね、往人さん……」
 恥ずかしそうに、そう声をかける。
「どうした? 観鈴」
「――このままだと、ちょっと恥ずかしいかも」
「あ、わりぃ……」
 そこで国崎往人も、観鈴を助け起こしたときからずっと抱きかかえたことに気付いたのであった。



■ ■ ■



「ま、こないなところやろな」
 国崎往人と同じく、それで居てさらに距離を置いたところに身を隠していたその人物は、静かにそう呟いた。
 ここからだと声は聞こえないが、観鈴が何かを囁いて、国崎往人が慌てたかのようにお姫様抱っこしていた彼女を降ろしているのを見ていれば、大体何が起こっているのかは良くわかる。
「さてと。えーあー、まずはシフト空けてもろうて……お次は水着か。昔のなんて着れへんやろし、買いに行くしかないなぁ」
 海から背を向け、歩き出す。
「それ以外は全部任せたで、居候」
 そんな呟きを聞いていたのは、海の上に浮かぶ満月のみであった。



Fin.







あとがき



 久しぶりのAIRでした。
 まだ夏には早いですが、一足先にお披露目としちゃいました^^。
 次回は……次回は、何にしようかな?

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