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このお話は、史上希にみるすさまじいまでのネタバレ前提で書いてあります。

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「岡崎、今回の台本長いよっ!」
「我慢して覚えろ。俺も大変だったんだぞっ!」





























































































  

  


 大学受験が終わってからの汐は、鬼気迫るものがあった。
 朝早く起きて登校。夕方遅くに帰宅して、夜遅くまでちゃぶ台を勉強机代わりに何かの書類を書いたり、電卓を猛烈な勢いで叩いたりと、とにかく忙しい。
 休日は休日で一日中机に座って書類とにらめっこしたり、時折訪れる汐の学校の生徒と数時間も話し合ったりとあまり変わらず、思わずもう休めと言ってしまいそうになることも何度かあった。
 だが、そういうわけにも行かないのは、俺も汐も重々承知のこと。
 後もう少しで、演劇部卒業公演。
 つまり、三年生の引退公演。
 そう。汐にとって最後の舞台になる日が、すぐそばまで近づいていた。



『渚から来た家族』



「続いて、一週間の天気予報です――」
 久しぶりに、汐がテレビを見ている。
 だがその貌は随分と鋭い――というか、険しいものだった。
 この辺り一帯の天気図に迫っているのは、小さな赤いアイコンと、大きな青いスクリーン。
 端的に言ってしまうと、季節はずれの低気圧と寒波が、一斉にこの町付近に押し寄せてきたのだ。
 汐が手にしたボールペンで、ちゃぶ台をとんとんと叩く。
 明日の天気予報は、雪。
 明後日も、雪。
 どちらも雪や風が強かったら、卒業公演は延期となってしまう。
「……降ってきたね」
 いつの間にかテレビではなく外を見ていた汐が、そう呟いた。
 つられて見てみれば、夜の闇から浮かび上がるように、雪が舞い降りて来ていた。
「明日、大丈夫かな」
 俺は、なにも言えなかった。

 次の日。予報通り雪は降り積もり、卒業公演は延期となった。
 そしてその次の日は……。

「……はい、わかりました。部員への通達はこちらで執り行っておきます」
 学校側からかかってきたとおぼしき電話を受けて、汐が事務的にそう返答する。受話器を下ろした後すぐさまそれを取り上げて、どこかに二言三言何かを伝えた後、今度はゆっくりと受話器を下ろし――、
 窓から降り続ける雪を見ながら、汐が深くため息をついた。
 その後ろ姿を見て、俺は錯覚してしまう。
 あの日、あのとき。
 かつて演劇部が廃部になってしまったときも、渚はああやって窓から外を眺め、一回だけため息をついていたのだ。
「元気出せ。明日はきっと大丈夫だ」
 昨日言えばよかった慰めの言葉が、今になって口から飛び出す。
「……うん、そうだね」
 俺のその言葉が何の根拠もないことを知ってか知らずか、やや力無い調子で、そう答える汐。
 しかし、たとえ気休めでも俺は慰めの言葉をかけずにはいられなかった。
 明日公演が出来ない場合、卒業公演は中止となるからだ。
 卒業式とスケジュールが近くなってしまう以上、それはもはや避けることができない。
 つまり、このままでは汐の努力が無駄になってしまう。
 そして、ささやかながら俺の努力も、だ。



 ――翌朝。
 俺達父娘は、事前に申し合わせた訳でもないのにいつもより二時間も早く起きていた。
 どちらから申し合わせるわけでもなく、左右のカーテンをそれぞれ持って、開ける。
 窓の外は分厚い雲に覆われていたものの、雪は少しも降っていなかった。
「降水確率は?」
 思わずぽつりと呟く、俺。
「30%」
 神速もかくやといった様子で玄関から朝刊を引き抜いた汐が、天気予報図をのぞき込みながら、そう言う。
「後は、この雪をどかすだけか」
 三日間降り続けた雪は、かなりの量が積もっていた。これをそのままにしておいて、来校者を招くことは出来ないだろう。
「行くか」
「うん、行こ」
 お互いシャベルを担いで、学校へと向かう。
 朝早いせいか、俺達の前には誰の足跡も残っていなった。
「やっぱり歩きにくいな……」
 深く積もった雪から足を引き抜いて、俺。
「仮に演劇部全員を投入したとして、どこまで出来るかな……」
 同じように苦労して歩きながらも、汐は先のことを考えていた。
 と、そこへ――。
「汐ちゃん!」
 まるでラッセル車のような勢いで、こちらに近づいてくる人影があった。
「ふぅさん!」
 驚いた様子で、汐が人影――風子に向かって、そう叫ぶ。
「ど、どうしたの。こんな朝早くに」
「どうしたもこうしたもありません。風子がやるべきことはひとつです」
 汐を見つけて全速力でやってきたのだろう。呼吸を整えながら、汐の幼なじみであり、渚の恩師である公子さんの妹でもあり、そして汐が通う学校の美術講師でもある風子はこう答えた。
「汐ちゃん達の演劇部卒業公演、それを無事開催させること以外に今はありません」
 風子、これでも汐ちゃんの学校の講師ですし――と言い切ろうとして、風子は汐に抱き締められた。
「……ありがとう、ふぅさん」
「礼には及びません。風子は風子がしたいことをしているだけに過ぎませんので」
 いつもなら『汐ちゃんにだっこされるなんて感激ですっ!』とか言ってトリップしてしまうのが常であったが、今は静かにそう答える風子だった。外見からはわかりづらいが、成長しているということなのだろう。援軍としては、十分に頼もしい。
「ところでふぅさん、そのスコップは一体何?」
「これですか。これはですね、汐ちゃん」
 園芸にでも使うような小さなスコップを二刀流のように持ち、風子は小さく息を吸って――。
「シャベルは風子にとって、少し重すぎました。その代わりの、スコップです」
 ……援軍としては、この上なく頼り無い一言だった。
 それでも、仲間であることには変わらない。
 俺達三人は、そのまま学校へと急ぐ。
「汐ちゃん!」
「汐!」
「汐ちゃん! それに朋也君も」
 そこへ、新たに声をかける人影があった。しかも今度は、三人同時に。
「藤林先生、坂上師匠、それにことみちゃん……」
 こんなに朝早いのに……と汐。
「いやね、演劇部の卒業公演、やるなら今日しかないって小耳に聞いちゃってね。居ても立ってもいられず来ちゃった」
 と、あっけらかんといった様子で、杏。ちなみに背中には俺や汐と同じようにシャベルを背負っている。
「右に同じく、だ」
 と、智代も笑ってそう言う。こちらは杏や俺達と違って、青龍偃月刀とかくやといった巨大なプラスティック製の雪下ろしを背負っていた。「私もなの。どこまでお手伝いできるか、わからないけど……」
 最後にそう言ったことみは背にも手にも何も持っていない。だが、俺達はことみ最大の武器がその頭脳であることを知っている。
「……よし、行くか」
 俺の一言で皆が頷いてくれる。これだけの人数であれば、ある程度のことは出来るだろう。
「これで、あいつもいればな」
 あの坂にさしかかり、苦労して上りながら、俺。
「……そうね」
 俺のすぐ隣で、杏がそう答える。おそらく雪の都合で、この町を離れざるを得なかったであろう――。
「おっそいよ。みんな何やってたのさ」
 頭上からそんな声がかかって、俺達は顔を上げる。
「春原……!」
 坂を上りきった先、校門に背を預けて春原が立っていた。
 傍らには、芽衣ちゃんもいる。芽衣ちゃんの方は数日前からまとめて休暇を取って古河家に泊まっていたと聞いていたが、いろいろと忙しいはずの春原は……。
「お前、大丈夫なのか?」
「怪我の功名さ。逆に雪のおかげでスケジュールが空いたんだ」
 今向こうは完全に雪で麻痺しちゃっているよ、と春原。
「ま、僕抜きでなにか楽しそうなことしてるんじゃないかと思って先回りしたのさ」
「ふん、誰がこれから始まる重労働にお前をほったらかしにすると思うか?」
 お互い、にやにや笑いながらそう言い合う。
「まぁ、お前はともかく芽衣ちゃんが援軍に加わってくれたのは嬉しい誤算だな。ここまで増えればある程度のことが出来るだろ」
「ある程度、ねぇ……」
 と、あらぬ方向を向いて春原は、
「岡崎、折角だからさここら付近の雪、全部どかしてみない?」
 そんな、とんでもないことを言う。
「全部ってお前、どれだけの人数と、時間が必要だと思っているんだよ」
 そう反駁する俺。春原だってもう立派な社会人だ。人数と作業量の比例はある程度把握しているだろうに。
「どれだけの人数ねぇ……」
 なのに、春原はそんなことを言う。
「なんだよ。さっきからやたらと突っかかるなお前」
「私達だけじゃ、ないんですよ」
 と、さっきから黙っていた芽衣ちゃんが、そう言う。
「……え、それって」
 汐が小さく、息を飲む。
「ああ、大分集まって居るみたいだけど?」
 そう聞くや否や、汐は一気に校門を駆け抜けた。俺達も、その後を追う。
 演劇部公演の舞台となる体育館。そこに、十数人の生徒の姿があった。皆、手にシャベルや雪下ろしを持ち、校門からここまでの雪を脇へと移動させている。
「みんなっ!」
 叫ばんばかりの勢いで、汐が声を上げる。
 すると、まるで訓練された軍人のような所作で幾人かがすぐさま顔を上げ、
「岡崎部長が到着されたぞー!」
「伝令走れ! 体育館の連中に岡崎部長が到着したことを伝えてこいっ!」
「了解しましたっ」
 きびきびとした動作で、それぞれが為すべきことを為していた。
「みんな……どうして」
 汐が声を詰まらせている。つまりは、汐が何か指示を飛ばしたわけではなく、演劇部員達が自主的に集まっているということなのだろう。
「今日駄目だったら後がありませんからね。やれるだけのことはやっておこうかと」
 俺の想像を肯定するかのように、演劇部員のひとりがそう答えた。
「岡崎部長!」
 そこへ、体育館から小柄の女生徒が飛び出てこちらに駆け寄る。汐が可愛がっている後輩で、俺とも縁がある、皆からナギと呼ばれる少女だった。
「状況を報告いたします。演劇部員設営部隊は全員登校済み。副部長は雪で少々遅れるそうですが開演三十分前にはこちらに到着されるそうです。この場にいない他の部員も、遅れる予定はありません」
「ありがとう。待ってて、準備が終わったらわたしもすぐに――」
 そう言って背中のシャベルを取ろうとする汐の手を、後輩はそっと押し留めて、
「いえ、いけません。岡崎部長は舞台の方をお願いいたします」
 いつになく厳しい声で、そう言った。
「でも、みんな頑張っているのに――」
「ですから、舞台の方をお願いいたします。岡崎部長、久々の主演ではありませんか」
 汐と後輩以外の、この場にいた全員が緊迫した空気に飲まれていた。それだけふたりは、真剣に話し合っていたのだ。
「そうだけど、でも」
「私は知っています。岡崎部長、公演が終わるとへとへとに疲れていらっしゃいますよね」
「だからセーブすれば」
「『良い演技は全力で!』これは部長が仰ったことです。ですから――ですからここは、裏方である私達にお任せください」
 汐と後輩の視線が交錯し、一瞬の間があった。誰かが、静かに息を飲む。
「ごめん、わたしがどうかしてた」
 やがて、折れたのは汐の方であった。取ろうとした背中のシャベルを、そのまま後輩に手渡す。
「役者のみなさんは副部長を除いて既に揃っています」
「わかった。舞台の方はわたし直轄で行くね……雪の方、お願い」
「お任せください」
 気が付けば、後輩を中心に演劇部の部員達が集まっている。
「既に校門から体育館までの雪は、ほぼ除雪しました。後は、あの坂です」
「……うん」
 頷く汐の表情は、どこか暗い。
 わかっているのだろう、この人数でそれだけのことをやろうとするのには、時間的に無理があることに。だが――、
「俺達も、手伝おう」
 一歩前に進み出て、俺はそう言っていた。
「岡崎さん!?」
 後輩が、驚いたようにそう言う。
「心配するな。もとよりそのつもりで来たんだ」
 そう答えながら、先ほどの汐のように背中のシャベルを取り出し、俺。
「無論、あたし達も手伝うわよ」
 そう言う杏に、智代が、ことみが、芽衣ちゃんが同意とばかりに頷く。
「お心遣い、痛み入ります」
 深く頭を下げて、後輩はそう言う。
「皆さんと、演劇部が力を合わせれば――」
「演劇部だけではない」
「……え?」
 力強い声に、俺達は一斉に振り返る。そこには、それぞれのユニフォームを着用した――、
「ラグビー部、参上!」
「野球部、颯爽登場!」
「剣道部、推して参る!」
 運動部の生徒達が、集まっていた。それも、かなりの数が。
「……いいの?」
 少し掠れた声で、汐。
「良いも悪いも無いっしょ。俺達、あんたの演劇みたくて手伝っているだけなんだからさ」
 野球部を名乗った集団の中から、妙に軽いノリの男子生徒が一歩前に出て、そう汐に答える。
「ありがとう、みんな。本当に、ありがとう」
 徐々に、汐の貌に活力が漲ってくる。この人数ならば、十分に間に合うと確信したのだろう。その見積もりは、俺の目から見ても間違いはなかった。
「ですが……」
 だが、汐とは逆に演劇部の後輩が少々暗い貌で呟く。
「シャベルとか、足りるのでしょうか」
「そこが問題なんですよ」
「わ!」
 彼女の真後ろでいきなり答え(そして彼女を驚かせ)たのは、ひとりの男子生徒だった。
「あれ、あなたは確か資料室の――」
 どこかで会ったのだろう、汐がそんなことを言う。
「はい、生徒会のものです」
 普段は資料室の管理をおこなっているものですが……と、前に進み出て、男子生徒。
「現状なんですが、学校の設備、備品が使えんのです。生徒会の末端が何人か来てくれたんですが、肝心の役員連中がまだ到着できないらしくて。生徒側が勝手に使うことができないのですよ」
「……元生徒会関係者としては、歯がゆいな」
 智代がぽつりと、そう呟いた。確かに、元生徒会長としてはその遠い後継者である現生徒会長がこの場にいないというのは色々と複雑だろう。
「あー、一応申し上げておきますけど、職務には能力的に申し分ないです。ですが、自然には勝てなかっただけで」
「そうだな。そこは混同してはいけない箇所だった」
 現生徒会長を慕っているのだろう。しっかりと釘を刺す男子生徒。それに対し、素直に自分の誤りを認める智代だった。
「それに、運は向いてきましたしね」
 どこか捉えどころのない顔つきの男子生徒はそう言う。
「というと?」
 何故か急に引き締まった貌になった智代に代わって、俺がそう訊いてみる。
「いえね、生徒会規約にこうあるんですよ。生徒会長、及び役員が何らかの事情で動けない場合、生徒会長印を所持している者が職務を代行することを認める、とね」
「なんだ、そりゃ」
 春原が呆れた声を出す。
「生徒会長の判子なんて、生徒会長しか持ってないに決まってんじゃん。意味無いでしょ、その規約」
「ええ、仰るとおり」
 と、資料室の管理を任されている生徒会の男子は、あっさりとそう答える。
「ですがね、この規約はほぼひとりの為に、いつか起こるかもしれない不測の事態に備えて作られたものなんですよ。あまりにもすごかったため、『伝説の生徒会長、その再来』と呼ばれた方の為に、当人が反対する中無理矢理制定したものなんです」
 ――ん?
 伝説の生徒会長の再来。そのフレーズをかつてどこかで聞いたことがある。それは、どこだったか……いや、いつのことだったか。
「結論から言うと、永久背番号ならぬ永久生徒会長印というものが存在します。それを手にしている方が居て、なおかつ現生徒会が機能しない場合、永久生徒会長印を所持されている方が、臨時で生徒会の――つまりはこの学校の生徒全員を指揮することが出来る。……そうでしたよね、坂上智代元生徒会長?」
 ――思い出した。伝説の生徒会長の再来とは、智代の生徒会長時代のふたつ名であったのだ。
「一応お聞きしますが、お持ちでいらっしゃいますか? 永久生徒会長印」
「ああ、持っている。忘れるものか、これは……私の思い出そのものだ」
 そう言って、智代は胸のポケットから口紅より一回り大きい、クロームメッキが施された真鍮製とおぼしき判子を取り出してみせた。
「元は、これが生徒会長印だったんだ。次の代の生徒会長に譲ろうとしたとき、そのまま持っているように懇願されて、こうして持ってる。今でも思い出せるぞ、私はこの規約に最後まで反対したんだ。いつまでも私におんぶにだっこでは生徒会は成り立たないじゃないか、とな」
 そんなことが、あったのか。
 智代には悪いが、生徒会にはまるで関わっていなかった俺にとって、初めて聞く話であった。
「――ですが」
「……あぁ、今になってこの規約があって嬉しかったと思う。――委任状は出来ているか?」
「はい、ここに」
 御丁寧に後ろ手に持っていたクリップボードを掲げて、生徒会の男子はそう答える。そこには智代の言う書類が、ただただ捺印を待っていた。
「規約の続きにありますからね。指揮権を委譲する際、正式な手続きを踏まなければならない、と。正直に言うと、演劇部部長である岡崎さんの師匠と呼ばれる人が貴方だと演劇部の女の子から聞いたとき、慌てて書いたものなんですが」
「……それでいい。どのような形であれ、私の言いつけを守り続けてくれたのだな。だから、今度は私が義務を果たさなければならないだろう」
「では――!」
 背筋を伸ばして、生徒会の男子は僅かに声を弾ませる。
「ああ」
 そう短く答えて、智代は持っていた判子のキャップを外すと、クリップボードにある書類に、しっかりと捺印をした。
「現時刻を以て、臨時生徒会長として現場指揮を執る。君――」
「あ、名乗り遅れました。資料室の管理を任されている杉田と言います」
「よし、では杉田君。私の権限で必要な機材を運び出してくれ」
「はい」
 気合いの入った敬礼をして、男子生徒はそう答えた。
「まちなよ智代、生徒会って彼を含めて少ししか居ないんだろ? それじゃ出来ることに限界があるんじゃないの?」
 そこへ、そう異議を唱えたのは春原だった。
「ああわかっている。故に、私からお前達に頼みがある」
 頭を下げて、智代が言う。
「生徒会規約と生徒会会長権限により、元生徒である岡崎朋也、春原陽平、藤林杏、一ノ瀬ことみを、現時刻を以て生徒会臨時役員とする。私が責任をとるから、学校の備品を使って、生徒達を助けてくれ。――繰り返すが、頼む」
「……断るわけ無いだろ」
 と、春原。
「手伝うに決まってんじゃない」
 少し呆れた調子で、杏もそう答える。
「あの……わたしは」
 少し寂しそうに、芽衣ちゃん。
「残念ながら、規約上、元生徒でないと臨時役員に任命することは出来ない」
 と、表情を変えずに智代。
「だから、済まないが生徒会長付きとして、私についてきてくれるか?」
「――はい、喜んで!」
 一転、嬉しそうに頷く芽衣ちゃんだった。
「杉田君、朋也、春原、藤林と一緒に今居る生徒達にシャベルなどの備品を配ってくれ。一ノ瀬と春原妹――」
「芽衣です」
 ぴっと背を伸ばして、芽衣ちゃんはそう言う。
「芽衣と呼んでください」
「――わかった。一ノ瀬と芽衣は私と一緒に生徒会室に来てくれ。そこから指揮を執る」
「了解いたしました。臨時生徒会長。ああそうだ」
 何かを思い出したらしい。杉田と名乗る男子生徒は、やにわ着ていたコートのポケットをごそごそと漁ると、
「こんなこともあろうかと、用意していたんですよ」
 茫洋とした貌とは裏腹に、用意周到な男子だった。
「はい、これをどうぞ」
 と、布でできた小さなものを俺達に配る。よく見てみれば、それは生徒会の腕章だった。
「まさか、俺が生徒会に関わるとはな……」
 それをひとつ受け取り、腕に通しながら、俺。
「いいじゃん。汐ちゃんの為ならなんだってするだろ?」
 同じように腕に巻きながら、春原がそう言う。あの反生徒会筆頭だった春原が、だ。
「智代の権力、ことみの知力、朋也と陽平の体力、芽衣ちゃんの交渉力にあたしの魅力と、これだけのメンバーが揃ったら最強じゃない?」
 と、杏。
「魅力っていうより腕力――」
「あ゛?」
「いえなんでもないですスミマセン」
 杏のひと睨みで必要以上に縮こまる春原を見て、皆自然と笑みを浮かべる。――どうも、春原の目許を見る限り意図的にやったようだが。
「……正直言うとな、学生時代に一度やりたかったんだ」
 ほんの少しだけ頬を緩ませて、智代はそう言った。
「こんな形になるとは思わなかったが、朋也達の力を借りられて嬉しく思う。……さて、汐」
「あ、はい?」
 圧倒されていたらしい。ぽかんとしていた汐が慌てて背を伸ばす。
「いつまでもぼうっとして居て、いいのか? 私達は除雪作業を本格化させるが」
「いえ、その――御協力ありがとうございます。師匠」
 背筋を伸ばして、汐が深く頭を下げる。
「いいんだ。私は臨時で手伝っているのに過ぎないのだからな。それより早く行くんだ」
「はい、わかりました師匠。ふぅさんはどうする――あれ、ふぅさんは?」
 汐の言う通り、いつのまにか風子がいない。
「伊吹には、伊吹にしかできないことがあるだろう」
 何かを察しているのだろう。智代が淡々とそう言う。
 そして、その後を継ぐように、俺は言う。
「お前にも、お前にしかできないことがある。そうだよな? 汐」
「……うん、そうだね。――行ってきます、おとーさん」
「おう、頑張ってこいよ」
 お互いの拳を打ち合わせ、汐は演劇部員達を率いて体育館へと入っていった。
「さて、やりますか」
 腕まくりをして、春原がそういう。
「……ああ、そうだな」
 開演まで、後三時間。
 やるべきことは、まだまだ多い。



■ ■ ■



 体育館に岡崎汐が飛び込んだ途端、辺りは歓声に包まれた。
 それを聞いて、観客席として使うパイプ椅子を並べていた相良美佐枝は思わず手を止める。
「おう、来たか」
「お疲れさま、汐ちゃん」
「先輩方……!」
 美佐枝と同じく会場の設営を手伝っていた、演劇部前部長、そして前々部長に声をかけられ、汐はしばし絶句していた。
 が、それも一瞬の間である。
「機械の具合はどう?」
 OBに一礼した後、コートを脱ぎ、畳んで腕にひっかけながら、汐は大股で舞台の方へと歩く。
「ここのところの雪のせいでしょうか。少々動きが鈍いものが数台」
「大道具とかを包んでいる毛布とかで暖めて! くれぐれもお湯とか水分のあるものを使わないように!」
 そう指示を飛ばしながら、汐が舞台裏に消える。。
「――本当に、大きくなったわね」
 前々部長が、そう呟いた。
「我々の予想以上ですよ」
 前副部長を従えた前部長が、そう答える。
「ねぇ、貴方達。何か手伝えること、ある?」
 そんな感慨深そうに舞台を見つめる彼らに、美佐枝はそう声をかけていた。客席の準備があらかた終わったからである。
「えっと……いえ、特には」
 と、前副部長が答える。
 体育館の中で、簡単に出来そうな準備は、ほとんど終えている。後は役者達の最終調整や、機械、配線の類ぐらいなのだろう。
「もう、座ってていいかしら?」
「はい、構いません」
「ん、ありがとね」
 並べられたパイプ椅子のひとつに、すとんと座り、準備を進める生徒達の会話に耳を澄ませる。
「なぁ聞いたか? 伝説の生徒会長の再来が生徒会長代理に就くってよ!」
「ややこしいなおい」
「でもさ、伝説の生徒会長の再来がいるなら、伝説の生徒会長が居てもおかしくね?」
「案外この会場に居たりしてな」
 居るのである。
 もっとも、今となっては誰も信じないだろうが。
「伝説の春原に、伝説の生徒会長の再来、それに物理博士に演劇部の前部長にさらにその前の女帝だって!? 今日はどんだけ伝説が集まるんだよ」
「演劇部の公演が成功するまでだろ? いいじゃないか、伝説の安売りセールしたって。むしろこれくらいやらなきゃさ」
 ポケットの中にある木彫りの判子を軽く握って、相良美佐枝は呟く。「ま、いい加減出番は譲らなきゃね」
 汐が来るまで悲壮感を漂わせていた体育館は、徐々に活気を取り戻しつつあった。



■ ■ ■



 体育館、そして雪に包まれた坂から離れた場所で、もうひとつの闘いがあった。
 職員室。この時間だと普段は数名の教師が居るが、今は講師が一名、連絡役の生徒が数名常時待機していた。
 彼らの仕事は単純明快、電話番である。
「ですから、生徒会長はまだ到着されていませんが、臨時で元生徒会長が指揮を執られています。……はい、はい。そうです。生徒会規約に則ったものです。逸脱は一切ありません」
 もっとも、電話の前にかじり付いているのは生徒のみであった。のこりの一名の講師――伊吹風子は、ただただ職員室のストーブを片っ端からつけて回り、その上に水の入った薬缶を載せていくのみであったのだ。
「――なんですって?」
 先程からやたらと長い電話に対応していた生徒が、急に押し黙った。その様子に、ストーブに向かって手のひらを暖めていた風子は振り返り、その近くに寄る。
「……いったいどうしたんだ?」
 電話の前で待っていた他の生徒が、絶句してしまった生徒にそう問いかけた。すると、受話器を握っていた生徒は、マイク側を手のひらで塞ぐと、
「今教頭先生から電話なんだけど……現場に教員がひとりも居ないのが問題じゃないかって。生徒会としては、直ちに公演準備を中止させるのが安全上最適じゃないかと――」
「そんな、実行出来る人間は揃っているのに……!」
 そこで、受話器を横から奪い取ったものが居る。
「もしもし、教頭先生でしょうか」
 風子であった。
「先程、無事到着いたしました。現在職員室にて、生徒達の監督にあたっております。……はい、はい。ですから、風――私が責任をとりますので。……ええ、はい。よろしくおねがいします。それでは」
 そう言って、風子は静かに受話器を置いた。
 周りの生徒達は、皆一斉に驚愕の表情を浮かべている。
「皆さんどうかしましたか。風子、何か面白いことを言ったつもりはありませんが」
「いや、あの、その……伊吹先生って、確か講師ですよね……」
 講師では、授業に責任は持てても生徒の活動、学校の活動には責任が持てない。生徒会に所属している彼らはそういう認識でいたのだが――、
「今月付けで、教師です」
 教員免許を提示して、風子はそう言った。
「教頭先生にもお伝えしましたが、責任は風子が取ります。皆さんはやれることをして下さい」
「りょ、了解しましたっ!」
 そこへ再び電話が複数同時に鳴り響き、彼らは再び電話番へと戻っていった。
「……後はお願いしました。坂上さん、岡崎さん」
 再びストーブに向かい、両手をかざしてそう呟く風子。
「汐ちゃんを、おねがいします」



■ ■ ■



「こっちはどうだ?」
 脇に寄せた雪の山にシャベルを突き立てて、俺は額の汗を拭いつつそう言った。
「大体半分は行ったかな」
 同じように汗を拭きながら、春原がそう答える。
「怯むな、開演まで後二時間だ」
 巨大な雪下ろしを、まるで風車のように回転させながら智代。まさに、陣頭指揮にふさわしい活躍ぶりだった。
「智代さん!」
 そこへ、携帯電話片手に坂を下っていった芽衣ちゃんが嬉しそうな貌で戻ってくる。
「援軍です!」
「……なに?」
 そう、芽衣ちゃんの後に続くのは――
「差し入れにコーヒーを持ってきました」
 カフェ『ゆきね』の店長、宮沢有紀寧だった。
「『ゆきね』さんのお手伝いくらい、いいですよね?」
「ああ、もちろんだ」
 むしろありがたい……と、智代。
 そして宮沢の後ろには――、
「それと、お手伝いをしたいという方達をつれてきたんですけど、いかがでしょう?」
 それはもう、言うまでもない。
「おはようございました。ゆきねぇの舎弟です」
「ン馬鹿野郎っ! ゆきねぇが舎弟じゃないって言ってンだろ!」
「ごふっ! 失礼しやした、常連客です」
「ゆきねぇの母校の一大事、義により助太刀いたしやす!」
 逞しい筋肉と、研ぎ澄まされた体格の男達が、一斉に頭を下げる。
「ちなみに、商店街からここまでの雪かきは行きがてら終わらせておきやした」
 にかっと笑って己の筋肉を誇示する強面達。
「感謝する」
 と、智代。
「……んでもって、その商店街から駅までは、俺達じじいの仕事よ」
 聞き慣れた声が、さらに後方から響いてきた。
「オッサン!」
 思わず歓声を上げてしまう、俺。なぜならそこには商店街の店主達を引き連れた古河夫妻が、静かに立っていたからだ。
「遅くなってすまねぇな。ちょっと雪かきしてきたわ」
 最近電子煙草に切り替えたオッサンが、そう言って煙り代わりの霧を吐く。
「これで、最寄り駅からこの坂まで、雪はありませんねっ」
 まるで自分のことのように喜ぶ早苗さんだった。
「よし、じゃあ後は――」
 シャベルを持ち直して、俺。
「この坂で、終わりよね――」
 往年の獰猛さを隠しもせず、杏。
「やってやろうじゃねーかよ」
 にやりと笑って、オッサンがそう言う。
 ……それからは、三十分もかからなかった。
 文字通り圧倒的な戦力で、あの坂の雪は駆逐されたのだ。
「うわははは、ワシらの大勝利よ!」
 『ゆきね』の常連客のひとりが、高笑いの浮かべ、路面を力強く踏みしめる。
 その、瞬間だった。
「のおおっ!?」
 その常連客が、坂を転がり落ちていく。
「亜丼〜! ふぬぅぅぅ!?」
「さ、寒村〜!」
 その常連客を助けようとして、別の常連客が、坂を転げ落ちていく。
「これは……」
 ことみが、しまったという貌になる。
「凍っているんだ。坂が……」
 その路面状態を確かめて、俺。
 まさか、あの坂が俺達の障害になるとは思わなかった。



 生徒会室。
 ホワイトボードには、『アイスバーン対策』と太字のマジックで議題が書かれている。
「気温の上昇は?」
 上座で、そう訊く智代。
「あまりみこめませんね……」
 徐々に集まりつつあった生徒会のメンバーが、そう答える。
「何より、お昼を待っていたら公演に間に合わないの」
 と、ことみ。
「アルコールとか、燃料撒いて火点けてみたら?」
 春原がそんなことを言う。
「駄目だ。直火は危険が大きすぎる」
 と、智代。
「それに、エネルギー効率があまりよくないの」
 ことみがそう付け加える。
「それじゃどうするの、ラッセル車でも呼ぶ?」
 と、杏。
「あれは雪を除けるためにあるからな――」
「それにたとえ効果があるとしても、今から呼んだんじゃ……」
 沈痛な雰囲気に包まれる、生徒会室だった。
「あの……」
 そこで、手を挙げたものがいる。
 末席にいた、演劇部の後輩だった。どうも、舞台装置の方がひと段落してこちらの会議に参加しているらしい。
「うん?」
 と、先を促す智代。
「こういう氷を溶かすのには、お湯が一番だと思うのですが」
「そうだな。だが、そのお湯を大量に調達する手段が無い」
「さらには、ある程度の圧力で放出できることが望ましいの」
 と、ことみが補足する。
「それなんですが……プールの水を加熱して放出する事は出来ませんでしょうか」
 ――その一瞬、誰も言葉を発せなかった。
「……なに?」
 僅かに腰を浮かし、智代。
「つまり、プールの水を排水し、それを何らかの熱で暖めたパイプを通せばお湯になると思うのですが」
「……! それなら――」
「元々路面は濡れておりますので、影響はごく少ないでしょう。これで一気に氷を溶かすことができると思うのですが……」
「一ノ瀬」
 静かにことみを呼ぶ、智代。
「うん」
「今の案、いけるか?」
「ポンプの力が十分にあれば。でないと熱して膨張した水が逆流してしまうの。でも、大抵の放水ポンプはそれくらいの圧力はものとしないはず」
「……わかった」
 智代の判断は、まさに迅速だった。
「朋也はポンプ電気周りの調整と指導! 春原は現地にてホースの設置作業を実施、藤林はその補佐、一ノ瀬はプランの検証と再計算、芽衣は私についてきてくれ」
「「「「了解!」」」」
「そして、校内放送。校舎内全生徒に協力を要請。生徒会臨時役員による対アイスバーン作戦を決行する。手が空いているものは手伝ってほしいと呼びかけてくれ」
「了解しました!」
 生徒会のメンバーが、返答代わりに敬礼をする。
「それでは直ちに作業にかかれ、解散!」
 俺達は、一斉に席を立った。
「ごめん、汐ちゃんには悪いんだけどわくわくしてきた」
 と、杏が呟く。
「僕もさ」
 そういう春原も、楽しそうだった。
 数十分後――。
『道路の凍結、九割方消滅!』
 現地からの報告により、生徒会室が歓声に満ちる。
「――終わったな」
 椅子に背を預けて、智代がそう呟いた。
「お疲れさまでした」
 先程到着した現生徒会長が、そう労う。
「うん、後は任せる」
「後も何も、この後やることはひとつしかありませんよ」
 と、生徒会長。
「演劇部卒業公演の、観賞です」
「……違いない」
 静かに笑って、立ち上がる智代。
「みんな、行くぞ」
 異議など、あろうはずもない。
 俺達は再び、一斉に席を立った。



 会場となる体育館は、意外にも普通の様相を呈していた。
 これは、舞台の演出に凝る汐にとって、珍しい事だといえる。
 何時だったか忘れたが観客席ごとジャングルにしたこともあったし、クリスマス公演の時には俺達が先程まで格闘していた雪景色を完全に再現したこともあった。
 だから、こうして普通にパイプ椅子の並ぶ客席に座っていると、逆に違和感を感じてしまう俺だった。もっとも、今降りている幕の向こう側は、そうとは言い切れないが。現に、単純ながらも心地よいピアノの旋律が、どこか遠くで響いていた。この演出は確か、映画館でヒントを得たと汐は言っていたものだ。
 客席に皆座り終えると、どことなくわくわくしてくる。
 大体のスケジュールは知っていたが、演劇の内容は全く知らされていなかった。パンフレットには、タイトルのみが記されているだけであったのだ。
「ねぇ朋也、なんて読むのこのタイトル?」
 そのパンフレットを覗き込みながら、杏がそう訊いてくる。
 それは、俺も知りたかったのだ。
 おそらくことみであれば苦もなく読めるであろう。そう思って呼びかけようとしたまさにその瞬間――、
『本日は御来場いただき、誠に有り難う御座います』
 会場内のアナウンスが始まり、客席の照明が薄暗くなった。その声の主は――あの、後輩のものだ。
『まもなく演劇部卒業公演を開始いたします。主演は演劇部部長、岡崎汐。演目は――《CLANNAD》』
 ……クラナド?
 聞き慣れない、言葉だった。
「くら――なんだって?」
 春原が、首を傾げる。
「クラナド。確かゲール語で『入り江から来た家族』という言葉を、縮めたものなの」
 俺の想像通り、ことみが淀みなくそう答える。
「へぇ……」
「でも、私があえて意訳するなら――」
 目を細めて、ことみは続ける。
「『渚から来た家族』」
 一瞬、場が静まり返った。
「――だめ?」
 少し不安げに、首を傾げることみに、俺は慌てて手を振って、
「いや違う、逆だ。上手い訳だったから、一瞬言葉が見つからなくてな」
 渚から、か……。
 汐もそこに気付いてこんなタイトルを付けたのだろうか。
 でも、それはこれから始まる演劇に対して、どんな意味を持つのだろう。
 そんなことを考えているうちに、
 舞台の幕が上がろうとしていた。



■ ■ ■



「どうして部外者の私がここにいるのかしら」
「ごめんね委員長。どうしても、見送って欲しかったから。――その、わたしの最後の舞台を」
「……わかっているわよ、岡崎汐。さぁ、いってらっしゃい」



■ ■ ■



 舞台の幕が上がったのと同時に、天井から桜吹雪が舞い降りて来た。
 ――舞台の季節は、春なのだろう。
 ただ、その桜の花びらは、なぜか薄い灰色だった。
 その薄暗い桜吹雪の中を、ひとりの男子生徒が歩いている。……いや、坂を上っている。
 まさか、これは。
「おい、おいおいおい……」
 今でも夢に見る光景が、目の前で再現されていた。
 汐が男子生徒の背後から現れる。
 衣装はモデルチェンジする前のこの学校の制服。つまりは、俺達が来ていた時代の、制服だ。
 その所作ひとつひとつが、実に自然に目に映る。
 ……あの日、あのとき。
 帰りの列車の中で汐に伝えた渚の話。
 後に何度も何度も汐にせがまれ、そのたびに話して聞かせた、俺達の物語。
 舞台の上の俺が、汐に一言声をかける。
 途端、舞い散る花びらが鮮やかな桜色を取り戻した。
 同時に、どこかくすんでいるように見えた舞台が鮮やかな色彩に切り替わる。
 俺の周囲に座る、誰もが言葉を発せ無かった。
 無論、俺もだ。
 その間も、物語は進んでいく。
 坂の下の出会いに始まったたったふたりの物語は、徐々に人の輪を広げていく。
 たとえば、春原。
 たとえば、杏。
 たとえば、智代。
 さらに汐は物語に脚色をしていた。
 たとえば、ことみ。
 俺は渚や杏達と一緒にことみを演劇部に誘うのだ。
 たとえば、風子。
 公子さんのために木彫りのヒトデを配っているのを、ふとした理由で俺達は手伝うようになる。
 ごくごく自然に、俺達の思い出が物語となっていた。
 物語の中盤で、舞台の春原がバカをやって、杏と智代に蹴りとばされた。
 観客が、一斉に驚く。
 ロープを使ったアクションで、舞台から体育館奥のキャットウォークまで春原が吹っ飛んで行ったからだ。
「僕、あんなにかっ飛びませんよねぇ!?」
 春原が小声で、そう抗議する。
「いや、飛んでいたぞ?」
「飛んでいたわよね」
「ああ、飛んでいたな」
 それがきっかけとなって、俺達は小声で感想を漏らすようになった。
「やだ、あたしってああ見えていたんだ……」
 恥ずかしそうに、杏がそう言う。
「なんということだ……」
 智代が息を飲む。
「舞台の私の方が、女の子らしいじゃないか……」
 その差は俺達には、よくわからない。
「あら、懐かしいですね」
 と、資料室のくだりで、宮沢。
 続いて、資料室になだれ込むマッチョメンが現れるが……。
「……ワシら、パンツ一丁じゃなかったよな?」
「まぁ良い筋肉しておるからよしとしようかのう」
「うむ、腹筋の割れ方が理想的じゃわい」
 ワセリンを塗ってテカテカであったが、特に気にも留めない常連客一同であった。
 そうこうしている間に、舞台は鮮やかに、軽やかに進んでいく。
 舞台の上の俺が汐を抱きしめた時はあちこちから口笛が鳴り響き(俺はかろうじて理性を保てた)、あのバスケで最後のシュートを決めたときは、わっと歓声が上がった。
 そしてクライマックス。
 なんと、舞台の中に舞台があるというすごい装置を使って、あの渚の演劇が再現された。
 舞台の中の舞台が左右に回転することによって、強調されるべき側がクローズアップされるのだ。今は、舞台側が手前になって、汐が静かに泣いている。
 そして次に瞬間には、客席側が手前になり、オッサン役が叫んだ。今でも覚えている、あの言葉。
 ――夢を、叶えろ。
「悪ぃ早苗、俺泣くわ」
 早くも涙声になっているオッサンであった。
 続いて、
『頑張れ――!』
 舞台の中の俺が、そう叫び……。
『頑張れ――!』
 舞台の中の観客席から、次々とそんな声が上がる。
 そして。
「頑張れ――!」
 俺達がいる客席からも、そんな声が上がっていた。
 ……ああもう、駄目だ。
 オッサンのことを笑えない。
 俺も、泣きそうだった。
 視界がぼやけそうになるのを袖を使って乱暴に拭い、そして、
「頑張れ――っ!」
 再び、叫ばせて貰う。
 やがて、ラストシーン。
 最後に、俺と渚が手を握って演劇部の部室を後にしたところで、舞台は終わった。
「やっべ――」
 泣き笑いの表情を浮かべて、春原が言う。
「今までの演劇で、一番感動したよ……」
 杏は何も言わなかった。ただただ、涙を堪えている。
「それだけじゃない。面白かった」
 智代が何度も頷きながら、そう言う。
「まるで、昔からみんなと一緒に居られたような気がしたの」
 と、ことみ。
「是非とも今年度のアカデミー賞をあげてください」
 最後に風子が、そう言った。
 さてと。いつまでも泣いている場合じゃない。
 そろそろ、俺の、俺達の出番だ。
 カーテンコールがかかり、舞台の上に役者が全員顔を出す。
 もちろん、中央には汐がいた。
『本日は御鑑賞いただき、誠に有り難う御座いました――』
 にこやかに汐の後輩はアナウンスを続ける。初めて出会ったときはものすごく上がっていたものだが、今ではここまで成長していた。その変化が、俺には眩しく映る。
『突然ですが、ここで主演の演劇部部長、岡崎汐先輩にメッセージがあります』
 舞台の上で、汐が変な顔をする。おそらく、事前に聞かされていなかったのだろう。もっとも、聞かせるわけには行かないのだが。
 同時に、俺達の周囲に黒子が忍びより、あるものを手渡してくる。
 俺はしっかりと手に取り、そっと目を閉じた。
 次の瞬間、会場の照明が落ち、スポットライトがある一点を照らし出す。
 そこは、俺が立ち上がった場所であった。
「お疲れ。よく頑張ったな、汐」
 直前で渡されていた花束を手に取って、続ける。
「正直、お前がここまですごい劇を作って、演じるとは思わなかった。お前はやっぱり――俺の、自慢の娘だよ」
 そこでスポットライトが切れ、次の瞬間立ち上がった杏を照らし出す。
「幼稚園のころから見てきたけど――」
 俺と同じく、花束を持って、杏。
「やだ、泣けてきちゃった……ごめん――」
 杏の名誉のために言っておくが、これは演技ではない。
 それを踏まえると、杏が誰かのためにここまで感情をむき出しにするのを、俺は初めて見た。汐もきっと、そうだろう。
 続いて、スポットライトは智代を照らし出す。
「師匠と呼ばれている私が言えることはただひとつ」
 こちらは台本通り、そして凛とした声で、智代。
「お前は自慢の弟子だ。汐」
 次は、ことみ。
「色々な世界を研究している私だけど――」
 調子が少しだけ危なっかしかったが、それでもことみは言葉を紡ぐ。
「汐ちゃんは確実に、ひとつの世界を持っているの。だからどうか、その世界を大事にして。私から言えることは、それだけだから」
 続いては、風子。
「三年間お疲れさまでした。風子、二年しかみていませんが」
 意外と淀み無く、風子は続ける。
「風子にとって、汐ちゃんはある種の幼なじみです。その幼なじみの門出は、非常に嬉しいものです。ですから……風子は、嬉しく思います。汐ちゃん、よく頑張りました」
 そして、春原。
「汐ちゃんには悪いかもしれないけど、言うね」
 いつになく優しい顔で、春原はそう続ける。
「渚ちゃんより演技、上手いよ」
 それは短かったが、十二分に想いが籠もっている一言だった。
 そして再び、スポットライトは俺へ。
「……まぁ、なんだ」
 花束を持ち直して、俺。
「さっきの劇にあったけどさ。夢を叶えたよな、汐」
 オッサンの夢を。
 渚の夢を。
 そして、自分の夢を。
「その夢を叶えるため頑張ってきたことを、お前は誇っていい。そこから旅立っていくことを、お前は躊躇してもいい。そこから歩む道を、お前は自由に選んでいい。そして、俺が、俺達が贈る言葉はただひとつだ」
 スポットライトが俺しか照らしていないため、汐の様子はわからない。だが、照明が消える前まで汐が居た位置に視線を向けて、俺は息を吸う。
「卒業おめでとう、汐」
 途端、照明が元に戻った。
 壇上の汐は、ぎりぎりで踏みとどまっていた。直立不動で両手を握りしめ、必死になって涙を堪えている。
『素敵なメッセージを、ありがとうございました』
 と、後輩のナレーション。
『藤林さん、坂上さん。お願い致します』
 ……え?
 なんだそりゃと言う間もなく、俺はふたりに襟首を捕まれると、舞台の上に放り投げられていた。
 とんだ逆ステージダイブだったが、衆人環視の手前、そして汐の父親であるため、どうにか上手く着地してみせる。
「お、おと、おとーさん――」
 汐は、爆発寸前だった。それでも、自分に課したルールは破らないよう、懸命に堪えている。
 そう言う意味で、ここまで投げ飛ばされたことは幸運だった。
「みんなが、見てるぞ?」
 肩をすくめて、俺。
「うん。でも、でももうむりっ……!」
 返事の代わりに、俺は両手を軽く広げる。
 途端、汐は俺の胸に飛び込んで号泣した。
 体育館が、割れんばかりの大拍手に包まれる。



□ □ □



「なんつー派手な演出だ……」
 爆音と言って良い拍手の嵐の中、演劇部前部長はそう呟いた。
「見事じゃないですか」
 前部長と同じく拍手をしながら、前副部長がそう答える。
「そうよ。これは褒めるべきだわ」
 と、前々部長。
「これだったらあの子も満足するはず……あら、やっぱり居るのね」
「……なにがです?」
 不思議そうにそう訊く前副部長に、
「ん、こっちの話」
 梁の上をちらっと見上げて前々部長はそう答え――、
「――!?」
 慌てたように、もう一度梁を見上げる。
「どうしました?」
「……ううん、何でもないわ」
 なんでもないかのように、前々部長。
 だがしかし、その光景は前々部長の脳裏にしっかと焼き付かれた。
 梁の上の幽霊は、静かに泣いていたのである。



■ ■ ■



 この後はまぁ、蛇足みたいなものだ。
 その後、写真部による記念撮影があった。
 はじめは役者全員。続いて、演劇部全員。そして最後に俺達も含めて、全員で。
 その三枚目の写真は今、俺達のアパートにある。
 フレームの中で、皆が笑っている暖かい写真だ。
 汐はまだ涙の跡が残っているが、それでも笑っている。その肩を抱いて、俺も笑っている。
 その写真はあれから大分経った今でも、俺達の家の写真立てに納められている。
 そしてもちろん、その隣には渚が笑っている写真立てがある。
 これはきっと、ずっとずっと変わらない風景となるだろう。
 浮かぶ、皆の笑顔。
 ことみが言った『渚から来た家族』とは、きっとこういうものに違いない。
 そう、思うのだ。



Fin.




あとがきはこちら










































「しおちゃん、そしてみなさん……お疲れさまでしたっ!」











































あとがき



 ○十七歳外伝、引退公演編でした。
 最終回じゃないぞ!? 最終回じゃないですよ!?
 次回はちょっと締めっぽいものをやって、そこからはしばらくコメディで行こうと思います。




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