『鬼の霍乱』(2002.02.12)




 朝。ホームルーム。ぽかんと空いた席がひとつ。
 その席を教室内の全生徒がちらちらと見やっているのを担任の石橋は遅まきながら気が付いた。仕方なく北川まで進んでいた出欠を中断し、ある事実を告げる。
「ああ、美坂は今日風邪で休みだ」
 がたたっ。突如として何かに取り憑かれたかのように男子一同が立ち上がった。
「そ、そんな莫迦なっ!」
「あのヘルシング卿が!?」
「クシャナ様がだとぅ!?」
「いや、どちらかというとハマーン様では?」
「ガンダムエースのハマーン様萌え〜!」
 あーだこーだと、騒ぎ出した男子を後目に、水瀬名雪は隣で唯一傍観していた相沢祐一と顔を合わせると、ため息を一つついた。
「……なんだかよくわからないけど、サッチャー元首相ってこと?」
「話にがっちりくっついてるじゃねーか。名雪」


「不覚を捕ったわ……」
 頭の上のタオルを自分で取り替えて、美坂香里は一人ぼやいた。
 今頃、学校では鉄の女がどうのこうと議論が白熱していることであろう。どちらかというと、そっちの方が悔しい。
「まあ、いいわ。明日覚えてなさい」
 まだ、少し熱でぼんやりとしながら、そう毒づく。


「ぶえっくしゅ!」
「ぼえっくしゅ!」
「ばえっくしゅ!」
「な、なんだ、お前ら風邪かっ?」
 一斉にくしゃみをした男子一同に、数学教師が驚いて黒板から振り返った。
「くちゅ!」
「香里だな。ほぼ百パー」
 遅れてくしゃみをした名雪を眺めながら、祐一はそう呟く。


 その、あまり病人のことを考えていない騒音で、香里は目を覚ました。
 玄関が勢いよく開く音がして、次いでハイテンポかつリズミカルな足音が階段を上ってくる。やがて蹴破らんばかりの勢いで部屋のドアが開くと、
「お姉ちゃん、生きてますかっ!?もしくは家を抜け出して風邪悪化させていませんか!?」
「いないわよ!」
 思わずベットから起きあがって叫び返す。この声に美坂栞は目をぱちくりさせると、
「――良かった。元気そうですね」
「おかげさまでね……」
 がっくりと肩を落とす香里。
「まったく、帰って来るなり最悪とその一個前の予想回答言われるとは思わなかったわ……」
 ゆっくりと身体をベットに預けていく。起きあがったときに落ちたタオルを拾おうとすると、栞はひょいと取り上げて、
「あ、ちゃんとタオルは代えていたんですね。えらいです」
「……無視する訳ね」
 ガクリと顔を横向き――栞の居る方――に向ける。
「無視してないですよー。それより、最良とその一個前の予想回答が聞きたいです」
「――言える訳無いでしょ」
「そーですか。じゃあいいです」
「素直でいいじゃない…………?……――!」
 やられた。言い負かされてしまった。しかも妹に。風邪のせいだ風邪のせいだ風邪のせいだ風邪のせいだ、そう反復している内に、栞は冷水を貼った洗面器からじっくりと漬けて置いたタオルを取り出し、手早く絞ると、
「お姉ちゃん、ぶつぶつ言ってないで天井向いてください。頭を使っていると熱が下がりませんよ」
「……う。わかったわよ……」
 今度は怒られた。どうも病人になってから、姉妹の立場が逆になっている気がする。
「でも、まさか私が看病する側に回ることになるなんて、思っても見なかったです」
「丈夫な姉で御免ね。しばらくお世話になるとするわ」
「いーえ。思っても見なかったことなんですから、程々にしてください」
「――つまりは、今後時々風邪を引けと?」
 布団をかけ直して、部屋を出ていこうとした栞の足がピタリと止まる。そして振り向くと、人差し指を唇にあてて、
「そうですね。そうしてくれると看護する側としては楽しいですっ」
 そう言って踵を返すと、栞は一気に階段を下りていった。
「――栞〜……」
 言うもんになったと思う。あの栞が。あの妹が。


 ――熱が下がらない。顔が真っ赤になってもおかしくないくらいの熱。なのに、血の気は引いていて、怖いくらいに白い。
『とりあえず、熱が下がれば、今回は』
 病院の医者はそう言って、病室を出ていった。熱が下がれば、熱が下がれば――。
 香里は、病室を飛び出して、一階の購買へ急ぐ。熱を下げるには、熱を下げるには――。
 妹の、栞の熱を下げるには。


「あ、起きちゃいましたか」
「……起きていたのよ」
 ぼんやりしていた頭が次第にはっきりしていく。
「どちらにしても都合がいいです。ぐっすり寝ていない限り、起こそうとしましたから」
「くだらない要件だったら怒るわよ」
「それは、お姉ちゃん次第です」
 そう言って、栞はスプーンが添えられた器をそっと姉の前に差し出した。
「お姉ちゃんの好きな桃缶と――バニラアイスです。食べられますか?」
「……ありがと。いただくわ」
 まだ気怠い身体をゆっくりと起こす。
「はい、どうぞ」
 器を受け取って、一口サイズにカットされた桃と、バニラアイスを一匙、一緒にして口に運んだ。
 桃の甘酸っぱさと、バニラの風味が染み渡っていく。
「……美味しい……」
「良かった。味覚がしっかりしていれば回復はもうすぐですよ」
 嬉しそうに目を細める栞。そんな妹を見ていて、香里は夢うつつに見たものを思い出した。
「そう言えば……」
「はい?」
「そう言えば、貴方が熱を出していたときは、アイスクリーム、特にバニラアイスを持ってきてあげてたっけ……」

 先程の夢がフラッシュバックする。

「……そうですよ。だから私はアイスクリームが好きなんです」
 その言葉にそっと押されるようにもう一匙。
「……鯛焼きにでもしておけば良かったわ」
「そうしたら私、あゆさんみたいになっていたかもしれませんね」
「元気すぎるのも困りものよ」
 いつも隣にいる、妹の明るい親友――姉からみて、自分にとっての名雪と同じく――思い浮かべて、香里はくつくつと笑った。そんな姉に、栞はゆっくりと頷いて、
「本当に大丈夫そうですね。……明日には、いつもの頑丈なお姉ちゃんに戻ってくださいよ」
「そーするわ」
 生返事で、スプーンを動かす。
「冬にはどうかと思っていたけど、熱を出しているときには、最高ね。これ」
 そこが、どうも限界だったらしい。栞はやおら立ち上がると、
「あ、あのですね、私の分もあるんで、持ってきますね。一緒に食べましょう」
「――風邪、移るわよ」
「咳はないから大丈夫でしょう。換気もしっかりしていますし――!」
 そう言いながら、速くも階段を駆け下りていく。
 本当に、もう。
「わかったわ。好きになさい」
 声に出る優しさは、隠せようがなかった。


Fin





あとがき


 久々に出す短編は、なんと香里でした。自分でもちょっと驚いています。
 さてさて、私の周りでも随分風邪がはやっているようです。今私が風邪を引くと洒落にならん事態になるのを知ってか、皆気を遣ってくださるので、それへの感謝を込めて、書いてみました。もっとも、受け取られても困るでしょうけど(笑)。

 さて、次回は――もうあの季節ですなあ……つーか、明後日じゃないですか。間に合うかなあ……。

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