気象庁が梅雨入り宣言してから数週間後の六月下旬、早朝のことである。
「わざわざ起こしに来てくれたのはありがたいんだけどな、茜」
折原浩平は自宅の玄関先でそう言った。
かなり珍しいことである。
パジャマ姿ではあったが、この時間帯の浩平は普段まだ寝ているはずであったからだ。そのことを不思議に思って起こしに来た彼女、里村茜が疑問を口にすると、
「本日、学校は臨時休校だ。さっき連絡網が回ってきた。んで、その電話のベルで叩き起こされたって訳だ」
未だ手に持っていた連絡網が綴じられたクリップボードで肩を叩き、浩平はそう言う。
「それよりオレが聞きたいのは……」
玄関に出来ている小さな水たまり、水に濡れて色が濃くなっているスカート、そしてうっすらと肌が透けている袖を順繰りに見ながら、浩平は言う。
「何でお前、ずぶ濡れなんだ?」
そう問われて、茜は小首を傾げる。その拍子に前髪から、水滴が零れ落ちた。
『注文の多い里村茜』
雨戸と窓を閉め切っていても、外の重低音を遮断することは出来なかった。
しとしとと降り続く梅雨時には珍しい、季節外れの大豪雨である。
「たまげたぞ、いきなり玄関が開いてずぶ濡れのお前が入ってきたんだから」
「……そうですか」
浩平から手渡されたバスタオルで頭を丁寧に拭きながら、茜。
「で、なんでずぶ濡れなんだ」
風呂場への廊下を歩きつつ、浩平。
「傘、飛ばされてしまったんです」
裸足の上にスリッパを履いた茜がそう答えと、浩平はぴたりと足を止めて、
「あの、お気に入りのか?」
ピンク色の柄のそれを思い浮かべつつ、そう訊く。
「まさか。こんなこともあろうかと予備のにしましたから」
つまり、飛ばされること前提であったらしい。
「……いやまぁいいけどな」
頭を掻きつつ歩みを再開した浩平は浴室の扉を開ける。
「悪いがちょっとばかり長めにシャワーでも浴びててくれ。それと風呂場に入ったらすぐ声かけるの忘れるなよ」
「どうしてです?」
「全力でお前の服にドライヤーをかける」
「なんでまた」
余剰な水分はあらかた拭い終わったので、使っていたバスタオルを丁寧に畳みつつ茜がそう訊く。
「そりゃお前――無いからだ」
「え?」
「替えの服が無いんだよ。ずっと雨が続いているだろ、由起子さんのパジャマも服も、乾いてないんだよな……」
「なら浩平のでいいです。余っていませんか?」
「馬鹿言え。確かに余ってはいるがオレのを着たってサイズが合わないだろ」
「何とでもなります」
「何とでもってお前――後悔するなよ」
「しません」
「よし、じゃあちょっと待ってろ――訂正、さっさと入ってくれ。少し時間を置いてから服を持ってくるから」
そう言って、浩平が脱衣場を後にする。階段をいつもより早足で上っていったのは、おそらく服の物色に向かった為であろう。
それでも茜はなお、幾ばくかの間をおいてから、
「後悔するわけ、無いじゃないですか――」
着ていた服に手をかけつつ、ひとり静かにそう呟く。
「浩平の、なんだから……」
■ ■ ■
「ちょっと待てい!」
風呂から上がって、居間に戻ってきた茜を一目見て、浩平は激しく咳き込んだ。
「おまっ、お前なぁ……」
「どうかしましたか?」
先ほどと同じく小首を傾げつつ、茜。ただしその頬は湯を浴びたため血色が良くなっており、トレードマークのお下げは解かれて、緩やかなウェーブを描いて広がっていた。
「俺が出した短パンどうしたよ」
「サイズ的に、履けません」
茜の名誉のために書いておくと、ウエストが入らないわけではない。逆に足らなすぎて、履こうにも履けないのである。
「だからってお前……」
Tシャツを着た、Tシャツだけを着た茜を頭の天辺から爪先まで眺めつつ、浩平は言葉を失う。
幸いというかなんというか、裾は十分に余っていたので、ちょっと丈の短いワンピースに見えないこともない。――かなり、無理はあったが。
「嫌じゃ、ないのか?」
「何がですか?」
「いやだって、汗くさいの嫌だろ」
「洗濯していないんですか?」
「いや、しているけどな」
「なら大丈夫です」
静かに部屋の中に進み、ソファーの端にちょこんと座って、茜はそう言う。
「だけどお前、こんなところ誰かに見られたら――」
「誰も、来ませんよ」
雨足が強すぎて真っ白になった外の風景を窓越しに見つめ、茜。
「そりゃまぁ、そうかもしれないけどな……」
台所に立ち、二人分のコーヒーを淹れていた浩平が、マグカップの片方を茜に手渡しつつそう言う。
「でもな、茜。オレの為に無理はするな。こういう日は傘が吹っ飛んだ時点で自分の家に戻ってくれ。でないと……でないと、オレが心配する」
「……そうですね。御免なさい」
「いいんだよ、謝らなくて。わかってくれりゃ、それでいい」
困ったように、それでいて嬉しそうに、浩平は頭を掻きながらそう言う。
「とりあえず今日はあれだ、折角のふたりきりだから――」
茜がこくんと頷く。
「雨が止むまで、ずっと傍にいてやるよ」
そう言って、浩平が茜の隣に座る。
そんな浩平にぴたっと身を寄せて、茜は抱きかかえるようにマグカップを口に運び、自然と湧き出た微笑みを隠したのであった。
Fin.
あとがき
お久しぶりのONEなSS、最萌トーナメント支援編でした。
ちょっと出来上がるのがぎりぎりというか忙しくて即興気味だったためいつもより短いです。御免なさい……。
さて次回は――どうしようかなw。
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