放課後、軽音楽部の部室。
使用している軽音楽部は、普段より幽霊部員だらけで、まともな活動をしていないのに存続を許されているという希有な部活である。それ故その部室も誰かに注目されると言うこともなく、今日も無人の教室として校舎の一角にひっそりと佇んでいるものと部外者である誰もが思っていたのだが、その日だけは些か事情が異なっていた。
「――よし。此処だったらふたりきりになれるな」
そう言って部室に忍び込むように入ったのは、普段は幽霊部員の一人である折原浩平である。
「……誰かに見られるかもしれません」
続けて入ってきたのは、浩平のクラスメイトである里村茜であった。ちなみに、彼女は部員ですらない。
「見られないって。ほら、カーテン全部閉まっているだろ。だから――」
「……学校を出てもふたりきりにはなれます」
普通の教室と同数だと使いにくいと判断されたのだろう、随分と間引きされた机のひとつに手を触れながら、茜はそう言う。
「いや、駄目だな。ふたりきりになりたいときに限って長森とか七瀬に遭遇するだろ。特に柚木に会う確率は100%越えているし」
「普通、100%は越えられないです」
「一度会って、また会う確率があるってことだよ」
「……なるほど」
覚えがあるのか、素直に頷く茜だった。
「だからさ――」
浩平がそっと、茜を抱き寄せる。
それに対して、茜は抵抗しなかった。
「いいのか?」
「見られないんでしょう? なら……」
茜がそっと、
「……いいです」
爪先を伸ばす。
このとき、茜も浩平も部室の窓がひとつ開いていることに気付いていなかった。
ついでに言えば、カーテンが時折風で捲られることにも失念していた。
すなわち、見られているのである。
『七瀬留美の激走』
■ ■ ■
結論から言うと、七瀬留美はその瞬間を見逃していた。
放課後、浩平がらみで手伝うようになった演劇部のちょっとした用事を片づけて、教室に戻ろうとしたときのことである。
階段を上がっていってふと廊下に目をやったとき、部活帰りとおぼしき友人の長森瑞佳が呆然と向かいの校舎を見ているので、何事かと視線を合わせたときには既に、茜は踵を返していたのであった。だから、その瞬間を見ていない留美であったが、それ特有の機敏な動きを見て、ああ、そういうことなのだなというのはわかった。
留美に言わせれば、その身のこなしは理想とする乙女の動きとぴったり合致していたのである。そこは流石留美的乙女筆頭候補と言ったところであろうか。もうひとりの筆頭候補も、すぐ隣に居るのだが。
そう、もうひとりの候補である長森瑞佳こそ、最初から最後まで見ていた人物なのである。
「……七瀬さん、今の見た?」
隣に留美が居るのに気付いていたのだろう、あるいは今気付いたのかもしれない。ともあれ、多少気が抜けている声で瑞佳はそう言った。
「見た、見ないで言うなら見ていないけど、何があったのかはわかったわ」
そして、見ない方が良かったと思う留美である。自分ではなく瑞佳が、だが。
そこでふと、茜が開きっぱなしの窓に気が付いたかのように振り返る素振りをみせた。
次の瞬間留美は瑞佳を抱きかかえて座り込み――こちらを向くであろう茜の視界から姿を隠す。
「ど、どうしたの?」
事態が把握できていないのだろう。留美の胸の中で、抱きしめられる格好になってしまった瑞佳がそう訊いてきた。
「どうしたの、じゃないわよ。いま一瞬でも反応が遅れていたら、あたし達が見ていたこと里村さんにばれてたわよ」
「そ、そうだったんだ……ありがとう」
「どういたしまして。って言うかあたしも見ていたんだから、お礼は要らないって」
息を潜めて、耳を澄ませる。
数秒後、窓が閉まる音が微かに響いてきた。おそらく、茜の指摘で浩平が窓を閉めたのだろう。
その後たっぷり三十秒ほど待ってから、留美は瑞佳と共に立ち上がる。
「あー、吃驚したわ」
「本当だねぇ」
スカートに付いた埃を落としながら、瑞佳。
まったくの余談ではあるが、同時刻とある男子生徒が忘れ物を取りに戻ったとき、廊下の隅で校内上位ランクの女生徒ふたりが抱き合って座り込んでいるのを発見した。言うまでもなく、それは先程までの留美と瑞佳のことであり、これが校内に一波乱を巻き起こすことになるのだが、それはまた別の話である。
閑話休題。
「でも本当に良かった。前のことにも吃驚したけど、今日のは本当にそれっぽかったから」
「……そうね」
浩平が茜に告白(?)をして、教室中を混沌に陥れたのは留美達の記憶にも新しいことである。
ただそれから、ふたりの関係が特に変わったということもなかったので、留美は安心半分、心配半分といった感じでふたりを、そして瑞佳を見守っていたのだが……今日、その均衡が崩れたことになる。
「ずっと前から、思っていたんだ。浩平にはしっかりした
人が居ればいいなって」
そう言いながら、瑞佳は廊下を歩き始めた。
「里村さんなら大丈夫だよね。わたしよりずっとしっかりしているし、なにより浩平の選んだ人だし」
瑞佳の話す速度が、いつもより速い。だからという訳でもないが、留美は返事をせず黙って相槌を打つ。
「だから、これでわたしも安心して――あれ?」
瑞佳が急に立ち止まった。
「あれ――どうしちゃったのかな、あれ?」
「瑞佳……」
少し遅れて留美も立ち止まり、そして気付く。
瑞佳の頬を、涙が濡らしていることに。
「や、やだ……どうしたんだろ、わたし……」
慌ててスカートのポケットからハンカチを取り出し目許を拭う瑞佳であったが、それでも涙は止まらない。むしろ、さらに止まらなくなり――、
「ご、ごめんねっ!」
嗚咽混じりながらもそう言って、瑞佳は突如駆けだした。
「な、ちょっと!」
――放っておくより、追いかけた方が良い。
理屈も感情も抜きに、ほぼ本能に近い形で留美は瑞佳を追う。追うのだが、その距離が縮まらない、むしろ差が開こうとしている。
「瑞佳って、あんなに速かったっけ……」
思わず速度を緩めて呆然とそう呟く留美であったが、すぐさま頭を振ると、ふたつに結い分けた髪を解き、ポニーテールに結い直した。
走ることに、身体を動かすことに全力を注いできたあの頃に戻るために、そして瑞佳に追いつくために、である。
「いっけえええええええ!」
離れていた瑞佳との距離が、すぐさま縮まった。だが瑞佳は廊下から階段へと入り、階段を猛烈な勢いで下り始める。
数段飛ばしで降りても踊り場で減速してしまう。そう判断した留美は階段の手すりを飛び越え、さらにそれを踏み台にしもうひとつ下へ。
いける。もうひとつ手すりを踏み台にすれば瑞佳の前に降りられる。減速がままならないが、そこは瑞佳に悪いけれど肩を借りよう。
そこまで一息で計算した留美は、予定通り驚く瑞佳の手前で彼女の両肩に手を置いて急減速をかけ、
「瑞佳っ!」
続いて両脚で着地し――、
「ア゛ッ――!」
その瞬間、自らの尾てい骨が『こりっ』と鳴ったのを確かに聞いたのであった。
……保健室。
「こう?」
「もっと〜」
生憎保健医が居なかった。
仕方がないので、瑞佳の肩を借りてどうにか此処まで辿り着いた留美は、もう一度瑞佳の手を借りて腰の応急処置に取りかかったのである。
「これでいい?」
「もっと〜」
それは腰部の固定、具体的に言うと治療用コルセットの装着であった。
「い、痛くない?」
「もっと〜」
幅広のゴム紐を力一杯引っ張る瑞佳。留美はというと、下着姿となりベッドの上でうつ伏せになっていた。
「こ、これでどうかなっ?」
「うん、それでOK。あー、やっと落ち着いたわ……」
瑞佳が両手を使って全力で引っ張って留めたコルセットを撫でながら、留美。マジックテープとなっているゴム紐に少しでも緩みがあれば、それはずれを生じ、最終的に激痛となって帰ってくる。故に、多少息苦しくてもきっちりと固定された方が最終的に楽なのであった。
「本当にごめんね、七瀬さん」
「謝らなくっていいって。あたしが勝手に追いかけたんだから」
スカートをはき、次いで上着に袖を通しながら、留美はそう答える。腰痛ひとつで瑞佳が我に返ってくれたのだから、安いものであった。
「それより肩は平気?」
「うん、ぶつかった時はちょっとびりっとしたけど、後は大丈夫」
「そう。良かったわ」
ついでに髪型を元に戻して一息つきながら、留美。
「それに、涙も引っ込んだし」
「……そうね」
正直、それが一番良かったと思う留美である。
「ありがとう、七瀬さん」
「――え?」
まさか礼を言われるとは思っていなかったので、留美は思わず聞き返していた。
「あのままだったらわたし、もっと大変なことになった居たと思うから。だから、止めてくれてありがとう」
ある意味、瑞佳らしい言い方ではあった。
言い方ではあったが、それはやはり瑞佳特有の、どこか自分を押し殺したものでもある。
だから――、
「あのね、瑞佳。なんていうか……」
留美は、思うところを口に出すことにした。
「うん?」
ベッドに座り直す留美に促されて、側のパイプ椅子に座る瑞佳。そんな彼女を横目に、留美は内心必死になって言葉を選び、
「瑞佳ってさ。折原に対して、しっかりした人が居た方が良いって、いつも言っていたじゃない」
「……うん」
「それってね、気付いていなかったのかもしれないけど、瑞佳自身のことだったと思うのよ。つまり――瑞佳はね、折原にそれなりの感情を持っていたんだと思う」
「――うん」
瑞佳は、否定しなかった。
「だけど、折原が選んだのは里村さんで、その里村さんも折原を選んだ。まぁ、見ていたからわかると思うんだけど」
瑞佳の貌を見ていられなくて、つい視線を逸らしてしまう、留美。
「……うん、そうだね」
けれど、瑞佳の声は何処までも優しかった。
「だからね、瑞佳。もう折原のことは里村さんに任せていいの。つっけんどんにしちゃっていいのよ」
「そ、そうかな?」
「里村さんがいるんだから、良いの。でも里村さんにはいつも通りに接しなきゃ駄目よ」
「あ、うん……そうだねぇ」
口調はもう、いつも通りの瑞佳である。
だからこそ、留美は瑞佳の貌を見ることができなかった。
それを知ったか知らずか――。
「ごめんね、七瀬さん」
瑞佳は、ぽつりとそう言った。
「七瀬さんは、ずっと前から気付いていたんだよね」
「謝らないといけないのは、あたしの方よ。いずれこうなることがわかっていたのに、何もしなかったんだから」
「ううん、それはきっとわたしが自分で気付かないといけなかったんだよ。だから――」
ふと、柔らかい風が保健室に吹き込んできた。
「改めて言うね。ありがとう、七瀬さん」
留美は瑞佳へと顔を向ける。そこにはいつも通りの、だけどちょっとだけ変わった友人の笑顔があった。
「こちらこそ」
後はお互い、何も言わない。
ただ、黙って頷き合うだけである。
■ ■ ■
保健室を出ると、夕陽が廊下に差し込んでいた。
「帰ろっか」
「うん、そうだねぇ」
ふたりで昇降口に向かう。すると――、
「お、長森に七瀬か」
たまたま、浩平と茜とに鉢合わせしてしまったのだった。
「丁度良い、これから茜と山葉堂に行こうと思っていたんだが、一緒にどうだ?」
思わず空気を読めーッ! と叫びそうになる留美である。だが、その直前で、
「浩平のおごりでいい?」
瑞佳がそう訊いていた。
「何でだよ?」
「良いと思います」
茜が即答する。
「何で茜が返事するんだ」
「……良いじゃないの。男を見せなさいよ、折原」
留美がふたりにそう助け船を出すと、女性陣三人には勝てないと踏んだのだろう、
「へいへい、勝手にしてくれ」
頭を掻き掻き、浩平は降参した。
「やったね! 里村さん」
「はい。これで心おきなく、甘くできます」
これは、大丈夫ね。
手を軽く打ち合わせる瑞佳と茜を見て、留美はそう思う。
「……何でお前はそう満足そうなんだ、七瀬」
「色々あったのよ、色々――ね」
下履きに履き換えながら、胸中で舌を出しつつ留美。折原は、しばらく真実を知らなくて良い。むしろ言ってやるものかと、そう思ったのだ。
「七瀬さん浩平見て見て、すごい夕焼け!」
そこへ茜と先行してした瑞佳が昇降口の外からそう呼びかける。
「ほら、行くわよ折原」
「へいへい」
手を振る瑞佳達の許に、留美と浩平が続く。
こうして夕陽が迫る中、四人は街へと歩きだしたのであった。
Fin.
あとがき
七瀬と長森でした。
ONEで複雑な恋愛模様というのは、正直余り合わないような気がしていたんですが、実際に書いてみると結構しっくりいって私自身が吃驚しました。何事も、チャレンジしてみるものですね。
さて次回は、……たぶん、コメディ調になるんじゃないかと……。
Back
Top