「わぁ……っ」
　その光景を目の当たりにして、汐は歓声を上げた。
　夏の海、その砂浜。砂浜と波打ち際の人影はまばらであり、そのおかげで水平線がかすかに丸くなっているのがわかる。
「――すごいっ！」
　汐が海を見たのはこれが初めてではない。初めてではないが、こうして砂浜があって自分の足を浸せるような海に来たのは、おそらく初めてのはずだ。
「気を付けろよ」
　水着に着替えて準備体操を終えた途端、風子と一緒に歓声を上げて海に突っ込んでいく汐へ、俺はそう声をかけた。
　聞こえているはずだが、足が止まらないのだろう。汐は並行して走る風子と一緒に海へと走り続け――突如立ちはだかった波と、まともに激突してしまった。
「わーっ！」
　そんな悲鳴と共に、風子が波打ち際に打ち上げられる。対して汐はというと、反射的に姿勢を低くして耐えきっていた。
「大丈夫か？　汐」
「うんっ」
　生まれて初めて頭から波を被ったはずなのに、何ともないとばかりに、汐。
　次いで俺は、ぶっ倒れたままの風子に歩み寄り、
「大丈夫か？」
　一応、そう声をかける。
「き、近年希に見るビッグウェーブでした……」
　ぶっ倒れたままで、風子。
「至って普通の波に見えたが。っていうか小学生に負けてどうする、お前」
　俺がそう言うと、風子はなおもぶっ倒れたまま、
「風子は風の子と書きます」
「……で？」
「故に、水に弱いんです」
「あ、そう……」
　思わず視線を空に向けてしまう俺。
　昼前の日差しが、目に心地良かった。



『渚に還る』



　汐が小学生になって、二度目の夏休み。俺達は芳野さんに教えてもらった穴場の海水浴場に遊びに来ていた。
　いつもなら一緒に行くオッサンと早苗さんは、残念ながら今回町内会の旅行に出かけている。ふたりともかなり行きたがっていたのだが、俺が取れる休暇と重なってしまったのだ。
　その代わりと言っては何だが、杏と春原、そして風子が来てくれた。忙しい中、ありがたいことだと思う。
「良かったじゃん、汐ちゃん嬉しそうで」
　汐が遊ぶ波打ち際から程良い位置に設置したビニールシートの上に寝っ転がって、春原がそう言った。
「ああ、そうだな」
　ビーチパラソルを立てた後、その下にあぐらをかいて座り、俺。視線の先には、熱いのだろう、ビーチサンダルを脱いだ汐が砂浜の上で飛び跳ねている。
「それだけでも、来たかいがあったねぇ」
「そうだな」
　空に浮かぶ雲は少なく、海から吹いてくる風は程良く涼しくて、気持ちいい。
「何よ、泳がないの？」
　そこへ、買い出しに出かけていたヨットパーカー姿の杏が戻ってきた。
「日頃の疲れが溜まっていてな、積極的に泳ぐ気になれないんだ。だから、此処で汐を見ているよ」
「僕も僕も」
「だらしないわねぇ」
　呆れた様子で、買ってきた飲み物を俺達に手渡しながら、杏。
「じゃあ、あたしは泳ごうかな？」
　そう言って、杏は裾の長いヨットパーカーを脱いだ。
「おうっ！？」
　許せ渚。
　此処のところ、女っ気のない処で過ごしていたため、杏の水着姿は眩しかったのだ。――その、露出度的にも。
「お、お前な……」
「まだまだ二十代だからね、ちょっと頑張ってみちゃった」
　杏の水着はその――グラビアアイドルが着るようなラベンダー色のビキニだったのだ。その布地の面積は、下品にならない限界いっぱいまで少なくなっている。
「が、頑張りすぎだろ……」
　目のやり場に困りつつ、俺。続いて春原が、
「そうだよね。なんていうか、その……」
　そこで怪しく目を光らせた杏が、すぐさまズバリと、
「次にあんたは――胸が大きくなったと言う！」
「む、胸が大き――ひいッ！？」
　見事なまでに填められる、春原だった。
「あんたたち、視線の先が胸元狙い過ぎよ。まぁ、狙ってやったあたしも悪いんだけど」
　と、生徒を指導する教師のような（事実幼稚園の保母なわけだが）口調で、杏。
「いやでも、すごいだろ」
　素直に俺がそう言うと、杏は澄まし顔で、
「ありがとう朋也。でも残念だけど、あれから成長はしていないわ。ただちょっとウエストを絞っただけなのよ」
　……なるほど。
「絞らんでもいいだろうに」
　元からスタイルの良い杏だ。それ以上痩せる必要はないはずだった。
「まぁね。でも陽平が誤解したように、大きく見えたでしょ？」
「まぁそうだが……」
　何というか、女性の努力のすさまじさというものを垣間見た気がする。
「絶望しました！　色っぽいと言ってくれない皆さんに風子絶望しました！」
　打ち上げられたショックで、さっきまで寝ていた風子が突如そう叫んだ。
「いや、まぁ……」
　お前の場合、汐と勝負した方がまだ望みがあるというか――いやいや。



「およいでくる」
　お昼を挟んで汐がそう言ったのは、これで三度目になる。
　この時期の子供は体力の塊だとよく言われるが、汐もそれに当てはまるようであった。
「おう、あまり遠くに行くなよ」
「心配ありません、風子がついていますので」
　こちらも疲れを全く見せずに、風子。しかし脇に抱えている浮き輪が、ものすごく不安だった。
「春原は？」
「僕は汐ちゃんを見ているよ」
「杏は？」
「……あたしも汐ちゃんを見ているわ」
　最初は汐につきあって頑張っていたが、なんだかんだ言って、へばってしまっている杏だった。
「さすがに参ったか」
「うん、まぁね……」
　少し悔しそうに、杏。
「でも幼稚園の頃は一緒に行動していただろ」
「そうだけど、今の汐ちゃんは当時より格段も元気になってるのよ。それこそもう置いてかれそうで――鍛え直そうかしら？」
「学生時代よりパワーアップしているのに、それ以上鍛えてどうするのさ」
　とげんなりした様子で、春原。
「ま、風子ちゃんのタフさには助かっているけどね」
　確かにそこらへんは、風子が少し羨ましい。杏も言葉にしてはいないが、同じことを考えていそうだった。
「それでは岡崎さん、戦果を期待していてください」
　びしっと敬礼を決めて、風子。隣では汐もつられて敬礼していたりする。
「――ちなみに、何の戦果だ？」
「言うまでもなく、ヒトデです」
　海に来て他に何をするんですか、と風子。
「……いいけど、汐から目を離すなよ」
「もちろんです！」
　全く頼もしいのやら、そうでないのやら。
　思わず苦笑してしまう俺に背を向けて、風子と汐は海に走っていく。
　――ふと、汐の背中を見ていて、あの言葉を思い出した。
「渚に還る……か」
「？」
　思わず口に出してしまった俺に、杏が首を傾げる。
「何がさ？」
　次いで、寝っ転がっていた春原がそう訊いてきた。
「汐のことだよ。……その、名前の由来な」
「へぇ、それは初耳だよ」
「言わなかったか？」
「いや、知らないね。渚ちゃんが決めたとは前に聞いていたけど」
「え、そうなの？」
　あたしはそれも初耳よ、と杏。
「そうか……」
　あの頃を思い出すと、少しだけ胸が痛んだが、俺は杏と春原に当時の経緯を話した。
「――それで俺は名字をあげられるからさ、名前は渚に決めてもらったんだ」
「それで、『汐』なんだね」
　と、いつの間にか起き上がって真摯に話を聞いていた春原が、そう呟いた。
「ああ、渚に汐は帰ってくるように――ってな」
「そう言う意味だったんだ……」
　と、杏。
「あ、この話汐にはまだ内緒な。もうちょっと大きくなってから話したいから」
「それは構いませんが」
　何故か風子が割り込んでそう言う。
「汐ちゃん、もう聞いてしまっています」
「何！？」
　慌てて海の方を向くと、それほど遠くない位置で、汐が目を丸くして立っていた。
「……パパ」
「あ、ああ。なんだ？」
「それ、ほんとう？」
「……ああ、本当だよ」
　いまさら隠し立てしても仕方ないし、したくもない。俺は素直にそう言った。
「こういう砂浜や波打ち際のことをな、渚って言うんだ。そして海の流れ――目じゃ見えないけどな――それを汐と言う。汐は広い海を旅するけど、砂浜に波が寄せるように、必ずこうやって、渚に帰ってくる。そう言う話さ」
　汐には伝わるだろうか、渚の想いが。
　名前を決める前から、出産のリスクを聞いていた渚の真意は、俺には計り知れない。
　けれども、こうして名付けた『汐』の意味にはどんなことがあっても自分の意志が届くようにと、渚の願いが篭もっているように俺には感じられていたのだ。
　届くだろうか、汐の心に。
「――っ」
　汐が再び、海へと走り出した。
　そして最初の時と同じように、再び波に激突する。
　今度も汐は、耐えきれなかったのかその姿が見えなくなり――俺と杏と春原は腰を浮かしかけた。
「大丈夫ですよ」
　妙に冷静な口調で、風子がそう言う。
「汐ちゃんなら、大丈夫です」
　その言葉を裏付けるように、海の中から立ち上がる汐。
　そして――、
「ただいまっ！」
　その汐の声を、俺は決して忘れることがないだろう。
「ただいま、ママっ！」
　渚の想いは、汐に届いた。汐に届いて、今渚の想いに応えたのだ。
　――久々に目頭が、熱くなった。
「ご、ごめん朋也、ちょっと泳いでくる」
「……僕もっ」
　それは杏や春原も同じだったようで、我先にと海に飛び込んでいく。
「風子、難しいことはわかりませんが――」
　ただひとり残って、風子が静かにそう言う。
「汐ちゃんのお母さんは良い名前を付けたと思います」
「ああ、俺もそう思うよ」
　汐とも風子とも視線を逸らし、そっと涙を拭く俺。
「パパー！」
　汐が大きく手を振る。こっちに来て、と言うように。
「岡崎さん、汐ちゃんのところに行きましょう」
　風子が一足先に飛び出て、俺に振り返りそう言った。
「ああ、そうだな」
　俺は腰を上げた。
　俺も、俺達も、渚に還ろうと思う。
　それが、渚の残してくれた想いに、応えられる術なのだから。
　俺は一歩を踏み出す。
　午後を過ぎてなおも晴れ渡る空の下、海から吹いてくる汐風が心地良かった。



Fin.

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あとがきはこちら











































「前にも言った気がしますが――朋也くんと、泳ぎたかったです」
「ああ、俺もお前の水着姿が見たかったよ」
「朋也くんっ」
「冗談だよ、怒るなって」




































あとがき



○十七歳外伝、初めての海水浴編でした。
○の命名理由を思い出したとき、それを知った○はどうするのかなと思ってこんな話を書いてみました。あの名前を決めるシーン、アニメではすごく切なくて良かったです（映画版も、ＴＶ版も）。
さて次回は――ちょっと未定で；

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