七月。長かった梅雨が明け、暑い日差しが照り出した初夏のことである。
 里村茜は土曜日の日中を利用して、診療所を訪れていた。
 ここのところ、どことなく体調が優れなかったためである。
「大きな病気というわけではありませんな」
 と、診断があらかた終わり、カルテに何かを書き込みながら初老の医師はそう言った。
「というと……」
 ブラウスのボタンを留めながら、茜が問う。
「まぁ、ぶっちゃけ暑気中りですな。強い日差しを避け、風通しの良い処に居るよう心掛ければ良いでしょう」
「わかりました」
「ああ、それとですな」
 そこで医師はカルテから顔を上げ、
「糖分がちょっとばかし、過剰接種気味のようですな。それが暑気中りを誘発している節があります」
「……はい?」
「しばらく、砂糖は控えてください」
 そのとき確かに、茜のお下げはぎざぎざになった。



『里村茜と七月のラプソディー』



 次の日、茜達の通う学校にて――。

 一時間目、茜は突っ伏したままだった。

 二時間目、茜は突っ伏したままだった。

 三時間目、茜は突っ伏したままだった。

 四時間目、茜は突っ伏したままで、前の席の南がそれまでのプレッシャーにあてられ、保健室送りとなった。

 そんな訳で昼休み。普段はクラスメイト各自で満遍なく賑わう教室であったが、本日だけは茜の席から半径数メートルが無人地帯となっていた。
「山葉堂、昨日休んでたっけ?」
「いや、思いっきり営業していたような気がするけど」
 そんな感じで、女子生徒と男子生徒の会話が響くのにも理由がある。
 以前、美味いワッフルで生徒に人気の山葉堂が理由を告げず数日休業したことがあり、その時茜は暴走というか奇矯な行動をとって、周囲を混乱に――当人にその意図は全く無かったのだが――陥れたことがあったのだ。
「どうしちゃったのかな、里村さん」
 と、折原浩平の机の隣に座り、昼から遊びにきていた椎名繭をあやしながら長森瑞佳が呟いた。
「わからん。先週ちょっと体調が悪いとか言っていたが」
 と、自分の席に座った浩平が返す。
「尋常じゃ無いわよ、あれ」
 最後に、浩平の前の席の七瀬留美がそう言った。
 無論三人とも、朝から茜を放置して訳ではない。訳ではないが、何があっても無反応であったため、手の施しようがなかったのである。
「大丈夫かなぁ。お昼、食べていないみたいだけど……」
 そう言いながら、瑞佳がため息をついた。すると、それまで猫よろしくごろごろとしていた繭が顔を上げ、
「みゅ?」
 と、視線を瑞佳に向けたまま茜を指さし、問う。
「うん、里村さん。なんか元気無さそうだから」
 語彙は少ないが意思の伝達には問題ないらしい。瑞佳は簡潔に繭の訊かんとすることに答えられたようである。
「……うーん」
 そんな瑞佳の返答に対し、繭は少し考えてから、瑞佳の膝元を離れた。
「繭?」
 瑞佳、浩平、留美の視線が追う中、繭はしっかりとした足取りで茜の席へと向かう。
「繭!?」
 瑞佳の疑問の声。それに答えるように繭は振り返ると、
「がんばる」
 その頃には、自然と教室中の視線が繭に集中していた。
 その一挙一足に、教室中が頑張れと無言のエールを送る。
 そんな応援を一身に受け、繭は今だ突っ伏したままの茜の前に立つと、自分のスカートのポケットに手を突っ込んだ。
 取り出したのは、猫じゃらしである。
「みゅっみゅっみゅっみゅっ」
「こ、これは……」
 浩平が座ったまま自分の膝を掴んだ。
「みゅっみゅっみゅっみゅっ」
「み、瑞佳が猫をあやす時と同じ――!」
 身を乗り出した留美が続く。
「みゅっみゅっみゅっみゅっ」
「繭……」
 色々と思うところがあるのだろう。感極まった声で瑞佳が呟いた。
「みゅっみゅっみゅっみゅっ!」
 惜しむらくは、猫じゃらしで直接茜の頭を叩いているところであろうか。
「こういうのは、母親に似るのね」
 留美がそう言った。
「わたし、繭のお母さんじゃないもん……」
 そう言いながらも、目尻が下がるのは止められずに、瑞佳。
「でも、そろそろ止めないと」
 そう言って腰を浮かせかけた彼女を止めたのは、浩平である。
「浩平――」
「いや、いいから繭に任せろ。あいつが自分の意志でやっているんだから」
「そうだけど……」
 そうこうしているうちに、繭はさらに手を振るピッチを上げ――、
「繭」
 そこで初めて、茜が声を上げた。
「みゅ?」
 反応した! と、教室中が静かに息を飲む中、茜は突っ伏したまま、
「静かに、してください」
「……うん」
 おとなしく、繭は引き下がった。そのままくるりと踵を返して瑞佳の膝まで戻ると、すとんと座る。
「……みゅー」
「ううん、良く頑張ったよ」
 そう瑞佳に言われて、満足したらしい。繭は満面の笑顔を浮かべて、瑞佳に抱き着いた。
 ぱちぱちと小さな拍手が、そこかしこで上がる。
 そんな中、浩平はというと信じられないとばかりに額の汗を拭き、
「い、今、茜のお下げが――波打ってなかったか?」
「そ、それはいくらなんでも……気のせいだと思うわよ?」
 丁度浩平と同じところを見ていた留美が、そう否定する。
「そ、そうだよなぁ」
 あはは、と、浩平。
 そうそう、と留美も頷く。
 ……両者とも、若干口元が引きつっていたが。
「と、とりあえず突破口は開けた! 今だ七瀬、とっておきの乙女ジョークで茜の心を開くんだ!」
「オッケー任せて! あたしお得意の乙女ジョークで――ってなによそれっ!」
「なんだ無いのか、茜が思わず飛び上がって駆け寄ってくるようなイカしたジョークが」
「そんなジョークがあったら見てみたいわこのあほっ!」
「むぅ。長森は――もう繭がやった後じゃ無意味か」
「うー、悔しいけど否定できないよ……」
「っていうか、あんたが何とかしなさいよ」
 鋭い留美である。けれど浩平はその突っ込みを無視して、
「ここは、あいつを頼るか」
「あいつ?」
 聞き返した瑞佳の疑問には答えず、浩平は机の中からふたつ一組の紙コップを取り出した。そして片方を耳に当てて、もう片方を口元に当てると、
「もしもし、柚木か?」
「もしもし、折原君?」
「えええええ!?」
 瑞佳が素っ頓狂な声を上げた。いつの間にか、浩平の後で浩平と同じように紙コップを構えた柚木詩子が居たのである。
「嘘、気配感じなかったわよ!?」
 元剣術家らしく、そんなことを言う留美。そしてそんな驚愕をものともせずに、
「茜の危機に現れる女、詩子さん!」
 そう言って、詩子は無意味なポーズをいくつか取ったのだった。
「あ、ロボットは持って無いよ? 東映版じゃないから」
「誰に言っているんだよ」
「でも口上とポーズの元ネタは東映版だけどね」
「だからわかんねぇって」
「まぁそれはさておき、どーしたのみんな暗い貌しちゃって」
「あれ」
 簡潔に、浩平が親指で以前突っ伏したままの茜を指さす。
「およ!? これは……結構珍しいかも」
「珍しい?」
「うん。茜は普段、自分が不調だって事を隠そうとするからね」
「……そういやそうだな。で、どうする?」
「ふむ」
 そう呟いて詩子がポケットから取り出したのは、三十分お任せを謳う棒付き飴だった。そして、浩平達について来いと合図しながら茜の席へと向かう。
「茜ー」
 ぴくりと、茜の肩が反応した。
「これあげる」
 初めて、茜が顔を上げた。いつも通りの、何処か無表情に見える瞳が詩子が持つものを見た途端、少しだけその表情を強ばらせて、
「いらないです」
 静かに、そう言う。
「ほほう?」
 詩子がその棒付き飴を、左右に振った。
 茜の視線が、がっちりと追尾する。
「……猫みたい」
 と、瑞佳が言い、
「お預けされた犬みたいね」
 と、留美が言った。
「どっちにしても可愛いからOKねっ!」
 にかっと笑って詩子。
「とりあえず原因わかったよ」
「あれでわかるのか!」
「付き合い長いからね」
 そのうち折原君もわかるようになるよ。と、詩子。
「茜」
「はい」
「すばり言うよ、お砂糖止められたんでしょ」
「――はい」
 途端、浩平、瑞佳、留美が将棋倒しになって倒れた。同時に周りで話を聞いていたクラスメイトも、思い思いの格好でこける。
「と、止められたってお前……」
 引っ繰り返ったまま、浩平が呟いた。
「ドクタースランプです」
「それを言うならドクターストップ」
 机を杖に立ち上がりつつ、留美が冷静に訂正する。
「そうでした……」
 途轍もなくだるそうに首の角度を変えて、茜が浩平達を見た。
「もう私、どうしたらいいのかわからないです……」
「茜、そんなこの世の終わりのような声を出さんでも」
「この世の終わりです」
 茜はきっぱりと言った。
 首をずずずと動かして、少しだけ紅潮し、少しだけ潤んだ瞳を浩平の方に向けながら、
「浩平、自分が今したいことを挙げてください」
「茜を抱きしめる」
 すぐさま、教室中から物が飛んで来た。そしてそれは悉く浩平に命中する。
「直球ねえ」
 机を投げようとした留美が、腰を痛めて断念しているのを残念そうに眺めながら、詩子が呟くように言った。
「これくらい、屁でもねえ」
 自分にぶつけられたものを丁寧に積み重ねながら、浩平。
「それで、私を抱き締めるのを禁止されたらどう思いますか?」
「この世の終わりだ」
 真顔になって、浩平ははっきりとそう言った。再び、教室中からあらゆるものが飛んで来て彼に命中するが、なんでもないように全部受け止めて、さらに積み重ねていく。
「わかってもらえたようで、何よりです」
 そう言って、茜はぷいっとそっぽを向いた。実際には頬を机に押しつけていたのでずいっといった感じであったが。
「でも止められたの砂糖でしょ。カロリーオフの人工甘味料は?」
 と、留美。
「お腹を下します」
 間髪入れずに、茜。
「それ、入れ過ぎ」
 こちらもすぐさま指摘する留美だが、
「そうですか?」
 茜は意に介さない。
「どのみち、過熱するものには向いていません。ワッフルとか、シフォンケーキとか、クレープとか……」
「あと、妙に爽やかなんだよな。ガムとかなら良いんだが」
「話が合いますね、浩平」
「まぁな」
「あの、ふたりともそこで話し合わせても――」
「――話の解決にはならないからね」
 と、同時にため息をつく瑞佳と留美。
「どちらにしても、あれは嫌です」
 久々に嫌悪の表情を浮かべて茜は続ける。
「たとえ世界のすべてが人工物になって、浩平がメカ平になったとしても、私はあれを使う気にはなれません」
「いや待て、メカ平ってなんだメカ平って」
「メカ原メカ平です」
「……可愛いかも」
 顔を赤らめて、瑞佳がそう呟いた。
「え? ごつくない?」
 驚いたように、留美が聞き返す。
「お前ら何勝手に想像しているんだよ……」
「十万馬力です」
 身体はぴくとも動かさず、茜。どうやらメカ原メカ兵は科学の子らしい。
「いよっ、この天元突破!」
 ついでに詩子の中では、合体するようであった。
「とりあえず、少し寝かせて下さい。明日はもっと……我慢しないといけないから……」
「いやお前、ずっと寝っぱなし――」
 浩平の声は、途中で途切れた。再び突っ伏した茜の肩が、微かながらも規則正しく動いて居たからである。
「……まぁとりあえず、今回はどうしようもないね」
 と、珍しく困った貌の詩子が腕を組んでそう言う。
「良い機会だから慣れさせちゃえば? 禁糖よ。禁糖」
「いや、無理だろう。茜と砂糖は切っても切れない仲だからな」
 投げやり気味の留美にはっきりと答える浩平。
「そうかなぁ……」
 そんな疑問とともに出た瑞佳の溜息は、教室の喧噪に紛れ、誰にも気付かれなかった。




 五時間目、茜は突っ伏したままだった。

 六時間目、茜は以下省略。

 そして、放課後。
「おい茜、授業は全部終わった――おわあっ!?」
 かなり真面目な悲鳴を、浩平は上げた。上げざるを得なかった。
 茜が、真っ白に燃え尽きていたからである。
 そう、それは新雪に勝るとも劣らない、驚きの白さであった。
「――浩平……」
 お下げを痙攣させながら、茜が最後の力を振り絞るように顔を上げる。どことなくやつれているのは――昼食を抜いたにしても――浩平の気のせい……であるはずだ。
「浩平、私、頑張りましたよね」
「いや、あのな」
「もう、ゴールしても良いですよね」
「なんのゴールだよ」
「ゴールっ……」
「なんだかわからんが、するなーっ!」
 そのままぱたんと突っ伏した茜を、結構必死になって浩平は揺すぶる。
「……どうするのよ、瑞佳」
「うーん、どうしようか……」
 瑞佳が天を仰いだ時である。教室のドアが唐突かつ勢いよく開かれた。続いて――、
「話は聞かせてもらったよ!」
『聞かせてもらったの!』
 声の主は、川名みさきであった。続いてスケッチブックを掲げたのは上月澪である。それに続いて、これじゃ演劇部じゃなくて料理部じゃないのよもう、と愚痴を零しつつ、深山雪見が大きなタッパーと共に教室に現れ、まぁまぁ……と、それを宥める詩子が続く。最後尾を務めるのは――てっきり帰宅していたと思われていた繭であった。
「希望を捨てちゃ駄目だよ。そんな時はっ」
『お砂糖を止められてしまった人に贈る、』
「みゅっ!」
「小豆餡の深みと甘さのハーモニー!」
『生菓子と干菓子のハイブリッド!』
「みゅみゅっ!」
「その名も〜」
『その名も〜』
「みゅみゅみゅ〜」
「「『キンツバ!』」」
 教室内のありとあらゆる動きが、きっかし1秒止まった。
「……雪ちゃん、今だよ、今」
「はいはい、ちょっと待ってね」
 そう言って、抱えていたタッパーを開ける雪見。中身はみさき達が言った通りの、作りたてと思われるキンツバが均等に詰められていた。
「さぁ!」
『さぁ! なの』
「みゅ〜!」
「……いや先輩、ハイテンションなとこ悪いんだけどさ。それ砂糖――」
「シュガーレスだよ」
「はい?」
「だから、シュガーレスだよ」
 けろりとした貌で、みさきはそう言う。
「柚木さんに聞いたけど禁止されているのって、お砂糖だけだよね?」
「え、あ、まぁ、そうらしいが……」
「それにほら、もう何というかもう――猫まっしぐら?」
 言い得て妙である。キンツバを頭上に掲げた雪見の周囲を、おねだりをする子犬のように茜がぴょんぴょん飛び上がっていた。
 それについては教室にいた一同、微笑ましいものを感じたという。



「……素敵です」
 キンツバを口に入れて30秒長、黙りこくっていた茜は幸せそうに目を瞑り、そう言った。
「餡にはね、サツマイモとカボチャをちょっと混ぜてあるんだよ」
 と、みさき。これにより甘味が増すらしい。
「うん……確かに甘いけど、本当にお砂糖、全然入ってないの?」
「むしろ入れたのはお塩だよ。ひとつまみだけだけどね」
「へぇ」
 参考になるわ……と、留美。その傍らでは瑞佳の監督の元、繭と澪がかなりのペースでキンツバを攻略していた。
 演劇部とみさきと詩子と繭が作ったキンツバはかなりの量があって、教室丸ごとがちょっとした試食会の体を示していた。そんな中、浩平は茜の肩を軽く叩いて、
「良かったな、茜」
「ありがとうございます。みんな、本当に……」
「いや、今回に限ってはオレ何もしていないし」
「それでも、です」
 そう言って、茜は頭を下げた。
「良かった、これで明日から元通りだね」
 ほっとした微笑みを浮かべて、瑞佳。
「これを機に減糖してみたら、減糖」
 やれやれと言った様子で、留美がそう言う。
「うんうん、さっきまで修羅と書いてシュガーと読む感じだったね」
「だれが上手いこと言えと」
 詩子の頭を軽く小突く浩平。

 こうして、教室丸ごとひとつと若干名の上級生下級生と多数の同級生、そして数名のゲストを巻き込んだ七月の騒動は終息した。
 ……後に残るのは、期末試験と夏休みである。



Fin.







あとがき



 久々のONEでした。
 久々なんでヒロインオールスターをやろうと決めたら、いつもより規模の多き騒動が起きてしまいましたが、まぁそれはそれでよし……かな?
 次回は、ちょっとしんみりした話で行こうと思います。

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