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今回は名雪、あゆ、栞ネタばれです。
ちょっと多くて申し訳ない。
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 例によって、待たされていた。

 部長会議の名雪を待ちながら、相沢祐一は自室でぼおっとしていた。
 と、部屋がノックされる。誰が来たのか分かっていたので、祐一は無言でドアを開けた。部屋に入ってきたのは祐一の予想通り――水瀬家における住人の中で唯一、部屋に入るときノックする人物――秋子であった。祐一の洗濯物をきれいに畳んで持ってきたのである。
「名雪、帰ってきませんね」
 洗濯物を受け取りながら言っても詮方ないことであったが、それでも祐一は言ってしまう。
「そうですね……またどこかで寝ていないといいんですけど」
 母親である自分でも、娘のそこだけはよくわからないといった感じで秋子はそう返した。
「まさか……」
 そのまさかだけは、前例があるだけに否定できない。
「もうすぐ帰ってきますよ」
 気楽にそう言った直後、玄関の呼び鈴が鳴る。
「ほら、玄関の――呼び鈴?」
 鍵でも閉まっていて、家の鍵を持っていくのを忘れるという失態を演じない限り、呼び鈴は必要ない。名雪が忘れものをすることは滅多になく、第一今の時間の水瀬家は、玄関に鍵がかかっていない。
「相沢君、居る!?」
 続いて声が聞こえた。美坂香里の声である。
 栞――香里の妹――に何かあったのか。確か今日はあゆと一緒に写生に出かけたはずだったよな。そう思いながら、祐一は階段を駆け下りた。……それにしても鍵が開いているのを知っているはずのに、相変わらず律儀だな……続けてそう思いながら、玄関を開ける。

 と。

「ゆういち〜」
「な、名雪!?」



『猫にまっしぐら――ここに、いるからside−B――』(2001.07.08)



 涙と埃でボロボロに汚れている名雪の顔に祐一は驚いた。おまけにあちこちに引っかき傷がある。
「名雪、お前……この年になって泣かされて帰ってきたのか?」
「子供じゃあるまいし、そんな訳ないでしょ」
 名雪にずっと付き添っていたのか、香里がそう言った。
「じゃ、なんだ?」
「…………真相のほうが子供っぽいわね」
「香里〜」
 そう拗ねるあいだにも、名雪はぐずぐずと泣いている。
「どうしたの?名雪」
 やや遅れて秋子が現れた。そして名雪の様子を一瞥するなり、
「――毛が制服についているのね。名雪、すぐにお風呂に行ってらっしゃい」
「うん……」
「毛?」
「猫の毛ですよ。祐一さん」
 そう言う秋子。
「ちょっと制服に付いた毛を取ってきますね。あと、鉤裂きがあるから繕わないと……」
 名雪についてバスルームに消える。後には困惑しっぱなしの祐一と、一息ついたかのようにため息をついた香里だけが残った。
「どういうことが説明してくれるか?香里」
「……いいわ。ちょっと名雪には悪いけど」


   ■ ■ ■


「今日は早めに終わったわね」
「うん。祐一が待ちぼうけしなくて済みそうだね」
「はいはい。ごちそうさま」
 今日の部長会議は本当に早かった。おかげでのんびり歩きながら帰宅できる。そういった時にいきなり惚気ではちょっとたまらない。
「最近本当に公認状態よね、貴方と相沢君」
 皮肉と言うよりほぼ冗談で言ったのだが、
「……うん、そうだね」
 帰ってきたのは憔悴した返事だった。
「どうしたのよ?元気ないじゃない」
「ええと、うん。内緒」
 無理して笑っているわね。つきあいの長い香里でやっと気付く程度の微妙に歪んだ微笑み。言うまでもなく名雪には似合わない。
「今の内に話しておきなさい。そうでないと後でもっと辛くなるわよ」
 名雪は即答しなかった。ただ、悩みに悩んだ気配がして、そしてひとつため息をつく。
「……やっぱりそうなんだ。香里には敵わないよ……」
「お世辞はいいから。どうしたのよ、一体」
 再び名雪は即答しなかった。重症ね。相沢君、名雪になんかしたのかしら。もしそうなら……すこしばかり本気で怒らねばならない。そんなことを考えていると、名雪はあさっての方を向きながら質問を質問で返してきた。
「あゆちゃんって、知ってる?」
「一応ね。栞の友達でしょ」
 にこにこにこにことその友達のことを毎日話してくれる妹のおかげで、どのような人物かは大体想像が付いている。
「私の家に、一緒に住んでいるんだよ」
「それも聞いたわ」
「それで、祐一が前に必死になって探した天使の人形の持ち主」
 名雪の足が止まる。香里も止まった。
「――それは、初耳ね」

 それは、どういうことか。

「あゆちゃんはね――七年前、祐一と出会ったんだって。それで……いろいろあったんだけど、この前やっと再会できたんだよ」
 その話には、食い違いがある。なら、妹の栞が話すその親友とは、いつ会ったのか。香里の記憶にある限り、それは前の冬だったはずなのだが。
「それは、この前の天使の人形より後のことなの?」
「うん、そうだよ。その天使の人形のおかげで、会えたんだ、祐一とあゆちゃん。……詳しくはわたしも上手く話せないけど」
 本当に申し訳なさそうに名雪はそう言う。おそらくはその言葉通り、名雪自身も詳しくは知らないのだろう。
「それでね、一度訊いちゃったんだ。祐一とのこと、いいのって?そうしたらあゆちゃん、笑いながらボクはここにいるからって。ここにいられるだけで十分だって。わたし、最低なことを訊いちゃったんだよ……」
「……確かに、少しばかり裁量が足らなかったわね――名雪?」

 ぎょっとしてしまった。名雪が泣いている。

 香里の記憶が確かならば、名雪は決して泣かない娘である。たとえ――やや不覚ながら――自らが涙する可能性があったとしても、彼女は泣かない。訊けば、既に『一番辛いこと』を経験したからだという。何がどうとは訊いていないが、それは自分の妹の手術前後とにあったことと近いものだろう。直感がそう告げている。
「七年前……」
 涙はみせず、ただ声だけ震わせて、名雪は続けた。
「あのときの一番辛かったこと、それがあゆちゃんと繋がっていなかったら、多分訊いてなかったと思う。だけど……だけど――」
 その先は言えなかった。同時に言わせなかったとも言える。香里が肩を抱いたから。
「あゆちゃんの方がずっと大人だって、その時に思ったんだ。あゆちゃんは、ずっと、わたしよりずっと大人だって……」
「それがわかっている貴方もね。名雪」
 しゃくり上げそうになって、それを無理に止めようとして、咳き込んでしまった名雪の背中を軽く叩きながら、香里はそう言った。しかしすぐに、自分でもらしくないと思った優しい声を、いつもよりきつくする。
「でもね、名雪、貴方がそんなことに悩むのは、その娘に対する侮辱に等しいわよ」
 いつになく、そう、いつになく厳しく言い渡す香里。そこまで語調を厳しくしなければ、名雪が壊れると直感したためだ。ここで悩みを肯定すれば、名雪は自分を責めることを止めない。
「相手が納得しているのなら、堂々となさい。それがせめてもの行為でしょう。私に言わせれば、相手は諦めているんだから、便乗してしまえばいいのよ」
「でも……でもね、香里」
 追いかけようと思えば、簡単に出来た。逢おうと思えば、いつだって出来た。七年間の歳月には、そんな機会がいくらでもあった。
 それが出来なかったのは弱い自分のせいである。
「それがどうしたの。私に言わせればね、待つってことは、それだけで、すごい努力だと思うけど?」
 抱いていた肩から腕を離して、代わりに両肩に両方の掌を載せて、香里は名雪の目を覗き込むように言う。
「名雪、あなたはここにいるから、ここにいたから。それだけでも、たいしたものなの。ずっと待っていたんじゃないの?諦めてなんか無かったんでしょう?なら、自分の気持ちを大切になさい。その娘に負けない自信があるなら」
 覗き込まれてから、強張ってそのままだった名雪の瞳から、初めて涙が出た。それを拭おうともせずに、名雪は何度も何度も頷く。
「うん、うん……ありがとう。香里」
「……まったく、なんて顔してるのよ」
 ピンと名雪の額を指で弾く。恥ずかしい話、今にもへたり込みそうなほど香里はほっとしていた。
「いい?相沢君はああ見えて、結構朴念仁だから気付かないかもしれないけど、名雪がずっとそんなこと考えていると、いくら何でも気付くわよ。それでなくても、その娘が気付くわ。わかるでしょう?そうなったらどうなるかぐらい」
「うん……」
「ん。ならシャンとなさい。できるでしょ?」
「うん、ありがとう。本当にありがとう、香里」


 帰り道が人目に付く方でなくて助かった。あれで、周囲の人の目を引いていたらとんでもなく恥ずかしい。そんなことを話しながら香里は名雪とともに、水瀬家への道を歩いていた。少し遅くなったため、昼食を一緒にという名雪の申し出を承けたためである。
「まあ、とにかく名雪はいつも通り。それでいいのよ」
「うん」
 名雪の調子は相変わらず……やっと相変わらずの調子に戻っていた。
「でも、間が抜けてるなんて言われないようにね」
「うん――って、わたし、普段間が抜けているように見えるの?香里」
「状況次第よ。いつでもどこでも同じように見えるんだから。名雪は――」
「フギャッ!」
「あ」
 これではどっちが間抜けかわからない。まあ、どちらにしろ、香里は猫のしっぽを踏んづけていた。
「猫!?」
 彼女を知る人ならまず全員が想像する通りに反応する名雪。ただ、つきあいの長い香里には、いつもより重症に見えた。集まりでもあったのか、猫が集団でいるせいでもあるのだろう。そして、先程のせいかもしれない。
「ね、ね、ね、ねこ〜生ねこ〜」
「あなたね……」
 最近生の猫を見ていなかったらしい。
「ちょっと、名雪」
「ね、ねご?」
「せめて日本語を話しなさい」
「だってだって、ねこだよねこ。英語で言うところのNEKOだよっ」
「――まず間違いなく英語じゃないわよ」
 キャットフィッシュがネコフィッシュ、キャットウォークがネコウォーク、ここらならまだ我慢できる。だが、キャッツアイがネコズアイ、F−14トムキャットがトムネコになるのは、勘弁してほしい。
「かわいいよ……」
「――そう?」
 どうみても、やや歳のデブ猫である。
「フーッ!」
 そのデブ猫――香里がしっぽを踏んづけた雄猫――は、気を逆立てて怒っている。そしてそれが伝播するように、他の猫も戦闘態勢を整えつつあった。
「あ、あ、あ、猫がいっぱい……」
 感極まっている名雪。瞳には流星群が降り注いでいる。
「状況をよく見なさい。相手は怒っているのよ」
「それでも……ねこぉ!」
「フギャア!」
 多勢の強みか、それともいくら脅しても動かなかったせいか、そして、名雪の異様な気配のせいか、ついに猫達が飛びかかってきた。
 そしてほぼ同時に、その集団で襲ってくる猫に向かって、まるで抱擁するような格好で飛び込んでいく名雪。香里には、その様子は今流行のスローモーションで見え、その表情はこの上ない恍惚の表情を浮かべているように見えた。


   ■ ■ ■


「――というわけ。後はねこの集団と名雪による組んずほぐれつの大騒ぎよ」」
「…………」
「一匹ずつ無理矢理抱きしめてほおずりするものだから、猫達の怒ること怒ること」
「…………」
「とりあえず一周して、二周目に入る直前でどうにか引きはがせたわ」
「…………」
「……まあ、あまり慰めにならないでしょうけどあえて言っておくわ。『気持ちはわかるわ。相沢君』」
「そりゃ、どうも……」
 リビングのテーブルに突っ伏したきり、動けない祐一。
「ったく、猫が相手じゃマジにもなれない……っていうか、なにやってんだまったく……」
「でも、相沢君、今はそう言っているけど、さっきはそうでもなかったでしょう?」
「は!?」
「いいの。こっちの話」
 猫アレルギーとはいえ、泣いていた名雪を初めて見たときの話である。その時の祐一の顔と表情はただ呆れた様だったが、その拳は硬く握られていた。そのことを香里は言いたかったのだが、黙ることにした。どうも無意識だったらしい。
 ――言うまでもないが、香里は猫のしっぽを踏む前のことは話していない。朴念仁には朴念仁なりに自分で理解してもらう必要がある。少し冷めたコーヒーを口に運びながら、香里はそう思っていた。
「ふう。やっと元に戻れたよ……」
 この上なく安心しきった声と共に、お風呂上がりでほかほかになった名雪がリビングに入ってきた。あちこちに小さな絆創膏も貼ってある。
「お疲れさん」
「繕いの方も終わりましたよ」
 名雪の制服を手に、秋子もリビングに入ってきた。
「……相変わらず速いですね、秋子さん」
 しかも見かけが前と寸分変わっていない。鉤裂きはそう簡単には繕えないものなのだが、本当に恐るべき早業である。
「香里と何を話していたの?祐一」
「ああ?名雪がどうドジを踏んだか」
「ひどいよ〜」
「事実よ、受け止めなさい」
 情け容赦のない香里の一言。
「あらあら……」
 名雪の制服をハンガーにかけながら微笑む秋子。そして、テーブルに座った面々を人差し指で数える。
「今日のお昼はちょっと多めに作りましょうね。祐一さん、香里さん、コーヒー冷めているようでしたら淹れ直しますけど、どうですか?」
「お願いします」
「俺もお願いします」
「はい。名雪もコーヒーでいいわね?」
「うん、いいよ」
 笑顔のまま、秋子がキッチンに向かおうとしたその時、玄関のドアがけたたましく開く音が聞こえてきた。
「ただいま〜」
 続いて、元気な声が玄関から響いてくる。そのままドタドタとこっちに向かって来たその音の主は、真琴であった。
「祐一、ぴろにね〜お友達ができたの〜」
 まるで狙っているかのように、その両手には猫が。右腕にはぴろ、左腕には茶虎の子猫を抱いていた。
「にゃ〜」
「みぃ〜」
「う゛ぁ、馬鹿!」
「? なによ、いきなり」
 事情が飲み込めない真琴の前に、幽鬼のように立ち塞がる名雪。瞳には超新星である。
「ね、ねご〜!しかもめっさかわいい子猫〜!」
「うわ、名雪、怖っ!」
「ええい、秋子さんは右を!真琴は左を抑えろ!」
「あらあら……」
 たちまちにして水瀬家のリビングは戦場となる。
「やれやれね」
 そんな中、香里は冷めたコーヒーカップを手に、微笑みを浮かべたまま肩を竦めたのであった。


Fin








あとがき

 そんなわけで、再び名雪です。ただ、今までと違って、ちょっとドロドロした話になってしまいました。
 昔あった彼女と、今そばにいる彼女っていうのは恋愛ものでは王道ですが、当の本人達にとっては堪らないでしょうね。経験が乏しいであまり大きな事は言えませんが。

 香里姉さんがかなり語調をきつくしてしまいましたが、私のイメージはこんな感じです。ここまでひどくないだろうと思ってしまった方、申し訳ないです。

 Kanonは、話そのものをひとつの軸に載せようとすると非常に難儀します。実は、私の書くKanonSSはその形で行こうと思っているので、キャラ達の解釈を立てる時点で非常に難儀しています。そのあおりを食らって、既に立てようがないヒロインも居たり。いままで、発言もしていないあの人とかです。

 で、次回は、その人を引き続き放っておいて、栞か真琴でいってみようかと。

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