『里村茜の計略』
「なぁ、茜」
憂鬱な一学期の期末試験が明けた七月の放課後、里村茜が帰り支度をしていたところに折原浩平はそう声をかけていた。梅雨が明けて、蒼天が飽きもせずに直射日光を浴びせ続けているため、昼が過ぎてもその蒸し暑さは衰退する気配を見せていない、そんな午後のことである。
「どうしました? 浩平」
支度の手を休めて茜が訊く。すると浩平は咳払いをひとつして、
「今年の夏休み、海かプールに行く予定はあるか?」
「無いです」
きっぱりと答える茜。
「……言い方を変えよう。俺が夏休み海かプールに誘ったら、お前は行くか?」
「――行きます」
少し考えて、茜はそう答えた。
「よし、では早速今年の水着をだな――」
「学校指定のものが有ります」
話が怪しい方向に動き出したのを勘付いたのか、素早く予防線を張る茜。それに対し浩平はキザったらしく人差し指を振って、
「いや、それは水泳の授業で十分に観させて――ふぎゃっ!」
後半がおかしな悲鳴になったのは、訳がある。七瀬留美が投げたプラスチックの定規が、良い具合に浩平の脳天を捉えた為であった。
「見てないで泳ぎなさいよ、まったくもう」
悶絶する浩平に歩み寄りながら、ため息と共に留美。傍らでは長森瑞佳が同意とばかりに頷いていた。
そんなふたりであるが、実は茜以上に多く男子の視線を集めていることに気付いていなかったりする――閑話休題。
「この後の展開が手に取るようにわかるわ。里村さんにごり押しして布地が少ないきわどい水着を着せる気でしょ?」
んなことあたしが許す訳ないでしょ。と言外に匂わせながらそう言う留美に、浩平はニヤリと笑い、
「いやいや乙女七瀬よ、お前だって乙女のひとりだ、わかるだろう?」
『乙女七瀬』という言葉が効いたらしい。留美は不意を突かれたかのような表情になって、
「え、な、何が?」
「やっぱりうら若き乙女としては、ひと夏ごとにイメチェンを計りたいところだよなっ?」
「あ、うん、そうね……そうかな?」
ちらっと、隣に居る瑞佳に確認を取る留美。しかし隣にいる少女は流行というものに対してとんと疎いことで有名な長森さんである。困ったように首を傾げるだけで、あまり参考にはならなかった。
「まぁ、そういうわけで今年用の水着は必要ってことだ。わかったか?」
「う、うん……ちなみに、あたしにはどんなのが良い?」
「そうだな、金太郎の前掛けなんてどうだ? きっと似合うぞ」
「そう? じゃあそれにしようか――って、なんでじゃあ!」
乾坤一擲。留美の裏拳が浩平の鼻っ面に炸裂した。
「お、お前の強さにオレが泣いた……」
腫れた鼻柱を押さえてそう言う浩平に、
「泣くで済んで何よりです」
と、冗談ではなく真顔で茜が言った。
「危なかった……危うく折原の術中にはまるところだったわ……」
と、肩で大きく息をしながら留美に、
「そうだったかなぁ……」
首を傾げる瑞佳である。
「それで、浩平はどんなものがいいんですか? ……私の、水着に」
二の腕を反対の手で掴みながら、茜が訊いた。途端、浩平は直立不動の姿勢になり、
「ふはははは、安心しろ茜、既に買ってある!」
先程まで悶絶していたとは到底思えない爽やかな笑顔で、そう言う。
「……浩平、質問です」
「ん、何だ?」
「どうして私の身体のサイズ、知っているんですか」
「計った」
茜の前に座っている南が、思わず鼻を押さえた。
「計られてないです」
「――まぁ、大体想像付くだろ」
「……あぁ」
と、留美が頷く。
「なるほど……」
同じく、瑞佳。
と、そこへ、
「折原君、居る?」
掛かって来た声は、四人が想像したものとは随分違う声色であった。
声の主は演劇部部長、深山雪見である。
「ああ、どうしたんだ? 深山先輩」
「伝言。校門で里村さんの知り合いって子から伝言をお願いされたの。『はーい、毎度毎度戦場を山本勘助並に先読みする柚木詩子さんでーす。今日は試合で抜けられなれなくてゴメンネ』……だって」
「……サンキュー、深山先輩。なんつーか、本人が直接喋っているみたいだった」
「ありがとう。演劇部員として嬉しいわ」
それじゃあね、と帰っていく雪見に、沈黙をもって応える茜達であった。
「この教室、監視カメラでもあるのかしら」
と、誰とも無しに訊く留美に、
「時々、そんな気がします」
そう茜が答えた。
「それで浩平、どんな水着買ってきたの?」
そう瑞佳が訊く。
「うむ、よく聞いてくれた」
先程からそう問われるのを待っていたようである。浩平は喜々としてやけに軽そうな紙袋とごそごそといじくると、
「これだっ!」
堂々と、掲げる『ふりをした』。
「それは――」
「そう、馬鹿には見えない水着! さぁ茜、着てみてく――」
「嫌です」
その声の直後に、瑞佳はぎくりとした。今、確かに、茜から『ぷちん』という音が聞こえたからである。
「……意外だわ折原。あたしの目の前でんなことする余裕があるなんてね」
「いや、ちょい待て七瀬、乙女だったら――」
「乙女だったら、今ある悪を粉砕するのみ! 覚悟っ」
「待ってください」
そう言って、大きく振り上げた留美の拳を止めたのは、他ならぬ茜である。
「さ、里村さん!?」
その行動もそうだが、力を込めていた自分の拳を茜があっさりと止めていたことに驚く留美。
「いいって言うの?」
「駄目に決まってます」
不可解な貌をする留美の傍ら、瑞佳は少々脅えた表情で浩平の袖を引っ張ると、
「ま、まずいよ浩平……」
「まずいって、何が?」
「多分、さっきので里村さんの血管――」
「浩平」
恐らく偶然であるが、瑞佳の言葉を遮るように何時になく据わった目で、茜が訊く。
「その水着、着て良いんですね?」
「おう」
「本当に、着て良いんですね?」
「も、もちろんだ」
「本当に着ます。良いんですね?」
「え、あー……」
「わかりました。ここで着替えます」
前の席の南が、鼻を押さえたまま悶絶した。
「最後に確認です」
胸のリボンに手をやって、茜は言う。
「ほんとうに、いいんですね?」
不幸にして、その時一年下の上月澪が教室へ遊びに来た。だが、茜の形相――いや、雰囲気――に口を二、三パクパクさせると、あわてて回れ右をし、退却した。
「ご、ゴメンナサイ」
崩れ落ちるように、頭を下げる浩平。
「浩平は最近そっちの方に話を持って行き過ぎです」
「自粛いたします……」
ほとんど土下座に近い状態で謝る、浩平。
「――これは将来、尻に敷かれるわね」
額の汗を拭いながら、留美がそう呟く。
「それくらいの方が良いよ。浩平にはしっかりした人の方がいいもん」
結構辛辣な瑞佳であった。
この時点で、教室は恐れおののく男子達と、納得するかのように頷く女子達とで二分されていた。誰もが――浩平達ですら、一歩ひいていたのである――距離を置いている中、茜は疲れたかのように溜め息をひとつ吐くと、
「……ところでそれ、男性用は無いんですか?」
「なぬ!?」
浩平の貌が、劇画調になる。
「浩平と、お揃いなら……考えます」
茜がそんな申し出をすると、浩平は背中に炎を背負いつつ一秒間きっかり思案して、
「く、クロスアウト(脱衣)!」
瞬時にして上半身裸となった。続いてズボンのファスナーに手を伸ばし――、
「瑞佳ぁ!」
浩平ではなく、反対方向の瑞佳に向けて留美が猛ダッシュする。
「七瀬さん!」
バレーボールにおけるレシーブの姿勢を取る瑞佳。そこに直前でジャンプした留美が飛び込み、瑞佳のレシーブによって天井高く舞い上がる。そして次の瞬間には身体を前後上下に半回転させ、
「必殺! 三角稲妻ラリアットリトルバスターズスペシャルッ!」
天井を蹴り、獲物を狙う鳶のような素早さで留美の腕が唸り、
「もるすぁ!」
浩平の首が、大きくひしゃげた。
■ ■ ■
「……素直に、一緒に水着を買いに行きたいって言えば良かったんです」
と、浩平の首を固定しながら、茜は言った。
「ああ、反省してる……痛てて」
保健室からもらってきた首固定セット(よくあったものだ)の装着具合を確かめながら、浩平。
「それはそうと、オレが全部脱いだら、どうするつもりだったんだ?」
そう浩平が訊くと、茜はそっけなく、
「浩平を、信じていましたから」
そんなことを言う。
「それだけとは、思わないけど。里村さんなら」
何時に無く鋭い瑞佳の指摘に、茜は、
「――それを履く前に、私に貸してくださいと言うつもりでした」
「それって、順序が逆じゃない?」
と、留美が突っ込む。
「……そうでした」
多少、怒っていたのでと、珍しく言い訳をする茜。
「悪かった。マジで」
素直に謝る浩平。同時に頭を下げて、首の痛みに苦笑する。その様子を見て、茜は少し表情を和らげると、
「こうしましょう。浩平が私のを選んで、私が浩平のを選びます。両者が合意をとれたらそれを買う。どうです?」
そう提案した。
「どっちかが気に入らなかったら選び直しか。OKだ」
と、浩平。
「もちろん、試着も付き合っていいよな?」
「付き合わなくていいです」
そこはぴしゃりという茜である。
「わたし達もそうしようか? 七瀬さん」
「そうね、瑞佳がそれでいいなら」
そんな瑞佳と留美のやりとりが引き金となって、教室中で、男子のグループ、女子のグループ、また少数のカップルが水着の話題に花を咲かせ始める。
そうして賑やかになった教室の中、浩平は興味深そうに、
「ちなみに訊くが、茜はどんなのを選んでくれるんだ?」
「馬鹿には見えない水着で」
少々根に持っている、茜であった。
Fin.
あとがき
ONESS、二〇〇七年夏編でした。
事の発端は、茜が着る水着は何だろうと考え始めたことです。
新旧スクール水着、競泳水着、意外と子供っぽいワンピース、アダルトにビキニ、一昔前に流行ったパレオ、エトセトラエトセトラ……。
――どれも似合うような気がしてきて、んじゃ似合わないものは何だと考えていたら……作中で浩平がふざけて出したものになってしまったのでした。まぁ意地の張り合いで茜が着なくて何よりです。(そう言う問題か?)
さて次回は、夏休み中か、直後の話で。
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