『国崎往人となんか匂うアイツ』



「うわぁー!」
 神尾家の台所で悲鳴が上がったのは、夏休みの午後、昼食が終わってしばらくしたときのことであった。
「……なんだ?」
 居間のちゃぶ台に肩肘を預けて食休みをしていた国崎往人が、膝を立てる。悲鳴の主が神尾観鈴本人のものであったためで、一緒にそれを聞いていた霧島佳乃、遠野美凪も――その日は、朝から夏休みの宿題を片付けていたのだ――声のした方に視線を向けている。
「どうした? 観鈴」
 国崎往人が声をかけるが、返事は無い。代わりに、なんとも言えない悪臭が漂って来た。
「むうっ!」
 昼食後、即座に熟睡していたみちるが跳ね起きる。
「なんかくさいっ!」
「ぴこーっ」
 遅れて、同じく熟睡していたポテトも跳び起きた。
「……なぁポテト、本来ならお前が真っ先に気付くはずじゃないか?」
「ぴこ?」
「いや、いい……」
 それよりも観鈴である。
 国崎往人は美凪と佳乃に目で合図をすると、ひとり台所に足を運んだ。
「おい観鈴、大丈夫か?」
 顔を出してそう言ったが、いつもの視線上には居ない。
 だが視線を下げて床を見ると、涙目の観鈴が座り込んだ姿勢のまま鼻を摘まんでいた。
「お前何をやって――くさっ!」
 ――この町とは違う海辺の街で、赤潮を見たことがある。
 国崎往人はその際物珍しさで近寄って、その悪臭に鼻をひん曲げたものだが、今、観鈴を中心とした半径数メートルがその数倍の刺激臭を漂わせていた。
「一体何をしたっ」
 自分の鼻を摘まんだため詰まった声になりながら、国崎往人が訊くと、
「膨らんだ缶詰を開けようとしたら、中身が急に」
 同じく鼻声で、観鈴。
「さっきから拭いているんだけど、匂い消えなくて――」
 そう言いながら、観鈴は身体のあちこちを拭っていたが、確かに悪臭は消えない。
「一体どんな缶詰を開けたらそうなるんだ――」
「イワシの缶詰です」
 国崎往人の後に続いて台所に入ってきた美凪がそう答えた。ハンカチを西部時代の三流強盗よろしく顔の下に巻いて、観鈴の前に転がった缶詰を拾い慎重に見定めてからの発言である。
「……イワシだ?」
「イワシの缶詰が、何かがきっかけとなって醗酵を始めたのでしょう……シュールストレミングのように」
「しゅー――なんだって?」
「シュールストレミング。ニシンを塩漬けにした缶詰です」
 と、美凪が解説した。
「酒の肴に最高だって、お姉ちゃんが言ってたよ。臭いけど」
 と、さらにその後から入ってきた佳乃が補足する。
「でも、本当にすごい匂いだねぇ」
 ハンカチを持っていなかったのか、ポテトを顔の前に押しつけながらそう言う佳乃。当のポテトはというと、いつも出している舌を仕舞って微動だにしない。どうも、息を止めているようであった。
「……それで観鈴、何だってお前は昼飯過ぎた後にそんな物を開けようと思ったんだ?」
「後片付けしていたら、パンパンに膨れた缶詰があったの。捨てなきゃと思って、それで開けようとしたら、中から液が――」
 観鈴にかかってしまったらしい。
「開けなきゃよかったのにな」
 と、国崎往人が呟くと、
「いえ、密封したままだといずれ爆発しますから、神尾さんの対応は正しかったです」
 すかさず美凪がそう言った。
「……なるほどな」
「それより往人さん、この匂いどうしよう……」
「どうしようって――遠野?」
 対処に困って美凪を仰ぐと、当の本人はこくりと頷いて缶詰を流しに置く。
 そして冷蔵庫の前に移動して中から料理酒を取り出すと、蓋を開けて缶詰に注いだ。
 それだけで、あれほどきつかった匂いが少し弱まる。
「大抵の醗酵は、アルコールで止まります」
「な、なるほど」
 どういった原理かは、国崎往人にはさっぱりわからない。
「後は神尾さんですが……」
「観鈴にも酒かけるのか?」
「多分……酔います」
 それはそれで見て見たかったが、どんな反応を見せるのか恐かったので、実行は断念する。
「後は?」
「匂いというものは、気体で大抵は水溶性ですから、大量の水で洗い流せば……」
「だ、そうだ」
「……え?」
 観鈴は今一理解出来ていなかったらしい。
 やむを無く、国崎往人は彼女を抱えて廊下を進み、
「わ、わ、往人さん、自分で出来るからっ。あと服っ!」
「洗濯機にそれ入れたら匂い移るだろうが」
「手荒いするのに〜」
「だからって今脱ぐな。俺が困る」
「……うん。――わわわっ! そんなに強く掻き回さないでっ。髪の毛痛いからっ」
 風呂場に放り込んで丸ごとシャワーで洗ってやったのだった。



■ ■ ■



「……食後の良い運動だったな」
「お疲れさまでした」
 再び、神尾家の居間。一仕事終えた国崎往人を美凪がそう言って出迎えると――
「往人クン、ポテトがすごい勢いで膨らんでるよぉ!」
 彼のシャツの袖を引っ張りながら佳乃がそう言ってきた。
「すごい勢いって、いくらなんでも言い過ぎだ――うわ」
 なるほど、確かに膨らんでいる。
「これは……国崎さん、もしかして」
 と、美凪。
「ああ、中身を丸ごとポテトにやったんだ。でもそんなに大量じゃなかったぞ」
 つまり、今膨らんでいるのは別の理由のはず、国崎往人はそう言いかけたのであるが……
「いえ……おそらく、お腹の中でも醗酵が進んでいるのでしょう」
 と、美凪が訂正した。
「でも、すごい勢いだよ!?」
 長い付き合いのせいなのか、心配しているというより興味深そうにポテトを眺めつつ、佳乃。
「多分……胃の中の微生物が手伝っているのかと――」
「……ポテトってすごいねぇ」
「ぴこ〜」
 遂に四肢で身体を支えられなくなったポテトが、自らの腹を支点にゆらゆらと揺れ始めた。
「――ま、その内元に戻るだろう」
「そうだねぇ」
「そうなんですか」
「いや、みんな助けようとは思わないんだね――」
 と、みちるが呆れつつ呟いたときである。
「霧島さんお待たせ。往人さん、遠野さん、色々とありがとう」
 そう言いながら、髪をタオルで拭きつつ観鈴が戻ってきた。
 居間の空気が、一瞬だけ完全に氷結する。
「え? あれ……どうしたの?」
 物凄い貌をしてしまったのだろう。おずおずとそう訊く観鈴に、国崎往人は咳払いをひとつだけすると、
「観鈴……その格好」
「え? あ――替えが無いから、お母さんの借りちゃった」
「……お前な」
 神尾晴子の格好とは、普段仕事に行くときのスーツではない。真夜中に帰ってきて、だらけているときの服装である。
 故に、色々と目のやり場に困ることとなった。
「大きいねぇ……」
 ある一点を凝視しながら、佳乃はそう言った。
「少し意外……」
 美凪も、そう言って凝視する。
「うーむむむぅ……」
 両手を自分の胸の前でわきわきさせながら、みちる。もちろん凝視している。
「ぴこ〜……」
 醗酵が進み、ついに真ん丸になったポテトが上下逆さになりながらも凝視していた。
「ふむ……」
 国崎往人も凝視した。
 なるほど、普段意識していないが、こうも薄着になると観鈴の胸囲は結構ある。
「往人さんっ!」
 やっと事の次第を理解した観鈴が、自分を掻き抱くようにして胸元を隠すと、少し赤くなってそう怒った。
「まぁ、気付かなかったお前も悪いと思うぞ。それはともかく――」
 視線をわざとずらしながら、国崎往人は続ける。
「……少々でかいが、俺のシャツが余ってたろ。それ着てこい」
「うん、そうする……」
 往人さんとペアルックになる。そこに思い至ったためか、多少機嫌を直して観鈴は居間から席を外したのだった。



 ここからは余談である。
 その夜仕事から帰ってきた晴子は観鈴が着ていたものを洗濯してしまったため着る物に困り、代わりに乾いた観鈴の私服を借りたのだった。
 その姿を見た国崎往人は飲んでいた茶を盛大に噴き――納屋に放り込まれたという。



Fin.







あとがき



 クリスマス以来ご無沙汰だったAIRでした。
 今回は、神尾親子の衣装交換を主眼に置いたつもりだったんですが――なんか主題が思いっきりずれてしまったような気がします。まぁ、いいかw。
 さて、次回ですが……暑いうちにもう一編書いてみようと思います。お楽しみに^^。

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