その日、水瀬家にとって数年に一度といわれた恐怖。唐突にそれが復活した。



『お食事件外伝〜Jの恐怖〜』(2000.12.25)



「ん?」
 晴れた日曜日の朝、相沢祐一が目覚めると、あたりは異様な臭気に満ちていた。
「なんだ?」
 辺りを見回しながら臭いを嗅いでみる。どうも部屋全体からするようで、根元がわからない。それにしても異様な臭いである。基本的に酸っぱいような香りだが、そこの多種多様の何かをブレンドした正体不明の臭気なのだ。
「また真琴のやつかな……?」
 水瀬家の居候その一(祐一を数えるとその二)、沢渡真琴は居候当初、よく祐一の部屋にいたずらを仕掛けたものだ。最近になって落ち着いて(祐一の迎撃にあって懲りたという方が近い)いたが、それがぶり返したとしてもおかしくない。他の理由が思い浮かばなかったため、とりあえず祐一は真琴に話を聞くことにした。着替えて、部屋を出ようとする。
「うっ――」
 ドアを開けると、その臭気がいっそう強くなった。何か空気と違うものが澱んでいるとしか考えられない臭いがする。
「なんだ?なんなんだ?」
 強くなった臭気は、トイレの芳香剤を悪趣味に強化したような臭いがする。そんな廊下を祐一は真琴の部屋へと進んだ。すると、突然その向かいの部屋のドアが一気に開いた。
「うぐぅ、なんかにおう――もっとにおうぅ!」
「あゆ……」
 水瀬家居候その二(祐一を入れると以下略)の月宮あゆである。ちょっとした事情で身寄りが無く、水瀬家にやっかいになっているのだ。
「そうか、おまえが原因ってのもあったか……」
「うぐぅ、なんの話?」
「まあ、ともかく真琴に――」
 言い終わる前にその本人の扉が開いた。ハンカチで鼻を押さえている。
「あうーっ、なんなのよーっ!」
「…………」
「…………」
「あうーっ、祐一……それにあゆも……」
「お前でもないのか、これの原因」
「真琴、こんなことしないわよっ!」
「まあ、そうかもな」
 真琴のいたずらはあゆがここに住むことになってから(その経緯は省く。一シナリオ分必要だから)一度もない。
「と、すると名雪……かな?」
「この臭いの原因、名雪さんなの?」
「いや、消去法でいくとそうなるだけだけどな」
「名雪じゃないわよ。こんなことするの」
「だよなあ」
 そうこうしていくうちに臭気はどんどん強さを増し、鼻を押さえていないと耐えられないほどになってきた。
「くそ、何かわからんが一度家の外に出るぞ」
「う、うん」
「あうーっ」
 三人で階段を駆け下りる。と、一番後ろのあゆがピタリと停まった。
「ねえ、祐一君、名雪さんは?」
「名雪? もう自分で避難していると思うが……」
「寝てるかもしれないよ」
「まさか……寝ているのか?」
「名雪さんならありえるよっ!」
 階段を引き返し、名雪の部屋のドアを開ける。
「本当に寝てやがる……」
「ゆ、祐一君!」
「祐一ーっ!」
 あゆと真琴、二人がそれぞれ祐一の袖を引っ張った。注視してみると……。
「な、名雪ー!」
「へ、変色してるよ……」
 名雪は抱いているけろぴーと同じ顔色であった。おまけに本来かすかにでも上下すべき胸が微動だにしない。
「し、死ぬなぁ! 名雪ぃぃぃ!」

 とりあえず、名雪を背負って(着替えさせている間にこっちまでヤられるような気がして、とりあえずパジャマの上にコートを着せただけにとどめた)、庭に避難した。通常の空気に触れたせいか、名雪の顔色が元に戻る。
「おい、名雪!」
「名雪さん!」
「名雪ーっ!」
 しかし呼べど叫べど名雪は返事をしない。
「一応心臓は動いているよっ!」
 胸に耳をあてていたあゆが叫んだ。
「よし、蘇生作業開始!」
「あうーっ!」
「うぐぅ!」
「…………」
「…………」
「…………」
 しばしの間。
「で、祐一君、何するの?」
「真琴、お前今保育園でバイトしてるだろ。園児の緊急時になんか無いのか?」
「え、ええ? えーと、バケツ一杯の水?」
「この季節にぶっかけたら心臓止まるわ!」
「じゃあ、人工呼吸……」
「それ――しかないか?」
「あうーっ」
「うぐぅ」
 気まずい空気が流れる。しばらくして祐一が呟いた。
「よし、こうしよう……」

「それで空気入れなんてひどすぎるよっ!」
 ごほごほとせき込みながら、名雪が非難の声を上げた。物置を物色した結果、浮き袋などを膨らませる空気入れを発見、それを名雪の口にくわえさせ、ハイペースに五、六回ほど空気を送り込んだ結果である。
「いや、この面子だとどの組み合わせでも気まずくてな――じゃなくて、名雪、お前呼吸止まっていたんだぞ」
「そうしたら、死んじゃうよ……」
「だから蘇生措置行ったんだろうが。自転車用でなかっただけ感謝してくれ」
「機械油臭くなるよ……」
「だから、ゴムボートとかに使う方探したんだよ」
「寝ていて呼吸が止まったの、はじめてだよ」
 コートの前をぴったりと閉じる。さすがに下がパジャマだけでは寒いし、皆の前では少し恥ずかしい。
「まあ、とりあえず生きてて良かったな。名雪」
「うん、そうだけど……」
「あーっ!」
 突然あゆが叫んだ。
「どうした、あゆ」
「あ、ああ、秋子さん!」
「あ!」
 名雪の一件ですっかり失念していた。水瀬家の家主、水瀬秋子の安否を確認していない。
「でも、あの人ならとっくに避難しているはず」
「でも、どこにもいないよっ!避難しているなら近くにいてもおかしくないよっ」
「う、確かに……」
「大丈夫」
 と、名雪が割り込んだ。まず滅多なことでは驚かない、その顔が青ざめている。
「この臭いの原因、お母さんだから。お母さんが、ジャム作ってる……」
 戦慄が一同に走る。
「な、名雪、ジャムって『あの』ジャム……か?」
「うん、そうだよ……」
「う、うぐぅ」
「あうーっ!」
 震え上がって、お互いを抱きしめ合うあゆと真琴。二人とも、最近になって『あの』ジャムの味を知ったのである。


「こっちはOKだ」
「こっちも大丈夫だよ」
 ご近所に悪臭をまき散らすわけには行かない。臭いがひどすぎるため家の中にはもう入れなかったが、外側から閉められる窓は片っ端から閉めてきたのである。
「あゆと真琴は?」
「物置。なんか探してたよ」
「……何をだ?」
「さあ……」
 名雪が肩をすくめたときである。
「突入するための装備だよっ!」
 唐突にあゆが戻ってきた。その装備とやらはマスクに水泳用ゴーグル、ゴム手袋と怪しいことこの上ない。後ろには普通の格好の真琴がいた。突入要員は一名だけらしい。
「ボク、秋子さんを止めてくる!」
「あゆ、お前ってやつは……」
 眩しいものを見るように祐一が呟く。
「これ以上、秋子さんに罪を重ねて欲しくないんだ」
「なんかお母さんが犯罪者みたい……」
 名雪も呟くが、無視される。
「ボク、行きます!」
「生きて帰ってこいよ、あゆ」
 敬礼する祐一。名雪と真琴がつられて敬礼する。
「行きます!」
 もう一度そう言うと、あゆは玄関のノブを回した。回したまま動かない。しばらくの間、時だけが流れた。
「あの……やっぱり誰かいっしょに行かないかな?」
「行かない」
「ちょっと……」
「いや」
「うぐぅ……」
 と、家の中から異音が聞こえてきた。

 がごしゅがごしゅがごしゅがごしゅがごしゅ……。
 ぎっちょぎっちょぎっちょぎっちょぎっちょ……。

 玄関の前でそのまま凍り付くあゆ。
「うぐぅ……いくら何でも入りたくない……」
「俺だって入りたくないわい」
「お母さん……」

 ぐおんぐおんぐおんぐおん。

 それは何か巨大なもの、たとえていうならアクシズクラスのものが回転しながら接近するような音で、

 ばりばりばりばりばりがきがきがきがきがき――

 たとえていうならそれは先ほどのものが放電しながら何かと激しく接触したような音。

 がきん!

 そして最後にやたらと重そうな金属音がして、それっきりになった。同時にあの臭いが徐々に薄れていく。
「お、終わったのか?」
「たぶん……」
 と、名雪。同時に少しほっとした表情になっている。しかし、終わったとはいえ、誰も動けずにいた。
「あゆ、その格好だ。調査ぐらいは出来るだろう。行って来い」
「え、お、終わったみたいなんだから一緒に行こうよ。ね?」
「ちっ、しょうがないな……」
 四人でぞろぞろと玄関に入る。そして、そのままキッチンへ。
「じゃ、ジャムゾンビとかでないよねっ?」
「出るわけ……ないだろ。多分」
 気分はバイオハザード。祐一はそんな事を考えながらそろそろと歩く。と、目的のキッチンのドアがゆっくりと開く。
「で、でたぁ!」
「――!」
「あうーっ!」
「う、うぐぅ!」
 祐一、名雪、真琴、あゆそれぞれがファイティングポーズをとる。そして現れたのは……。
「あら、どうしたの?みんな揃って……それに名雪、パジャマ着たままじゃない」
 普段と全く変わらない秋子さんであった。あはははは……と笑うしかない四人。

 その日以来、四人は『あの』ジャムをよりいっそう避けるようになったという。

Fin



あとがき

 このSSは、DEMA.coのGevaさんに、改装祝いとして贈ったものです。

 というわけで謎ジャムです。よく材料については話題にされるのですが、製法についてはあまり話題にならない上に、私としてはそっちの方が気になってしまって、こんな話になりました。
 実際はきっと、もっとすごい作り方に違いないでしょう(笑)。
 さて、色々なところで書いていますが、このお話、Gevaさんの所(DEMA.co)ではなんと、挿し絵がついています。非常にナイスなので是非見てみてください。

Back

Top