『岡崎家の父の日』(2008.06.10) 

「おとーさーん」
 汐に背中にのしかかれたのは日曜の午後、何気なしにテレビを観ていたときのことだった。
「どうした汐、おねだりか?」
 テレビから目を逸らさずに、俺はそう訊く(そんなことはまずないのだが)。すると汐は、俺の耳元で囁くように、
「んーん、今回はその逆」
 ……何?
 その言葉の意味がわからずに視線を横に向け、汐と目を合わせる。
「どういう意味だ? それ」
 そう尋ね返すと、汐は指を一本立てて、
「さてここで問題です。今日は何の日でしょう?」
 はて。
「誰かの誕生日だったか?」
「違う違う。今日はね、父の日」
 ……ああ、そうか。

 父の日も母の日も、俺が家庭を持つ前は非常に疎遠なものだった。
 子供の頃から母の日に渡すカーネーションなんてものはなく、中学の頃には父の日であっても普段と何も変わらない一日であったのだ。
 ただ不可抗力な母の日はともかく、父の日に何もしなかった日々が続いたのは、今日に至っても申し訳ないと思っている。
 けれども、手遅れではない。家庭を持った、その意味を知る今の俺にはできることがある。
「そうか、今日は父の日か」
 勢いを付けて立ち上がりながら、俺。
「どうしたの?」
「電話。親父にな」
「……あ、うん」
 すべてを察したのだろう。汐は静かにちゃぶ台のそばに座り、俺は受話器を取ってそのまま親父と半時間ほどの会話をした。
 そう。今の俺は、こうやって親父と向き合って話をすることができる。
「ありがとうな、汐。すっかり忘れてた」
 今度の夏休みに酒を飲み交わす約束をしてから、受話器を置いて俺。
「ううん、気にしないで」
 どこか嬉しそうに、そして少し羨ましそうに、汐。
「こっちこそごめんね。直幸さんのこと、考えてなかった」
「いいんだよ。俺の親父なんだから」
 いらない――いや、そうでもないか――気を揉む娘の頭をくしゃくしゃと撫でてから俺は胡座をかいて汐と正対した。
「さてと、うちじゃどうするんだ? 父の日」
 そう訊いてやると、汐は頤に手を当てて、
「うーんとね、肩揉んであげようか?」
「いや、それはいい」
 四十手前とは言え、そういうので喜ぶ程でもない。
「じゃあ、何か欲しいものある?」
「それも特に。汐が健やかに逞しく色っぽく育ってくれれば、それでいい」
「そう……って、最後の色っぽくってなに!?」
「冗談だ、冗談」
 俺がそう笑ってみせると、汐は不満半分、考え事半分と言った感じで両腕を組んでいた。
「それじゃあね――」

「ふぅ」
 湯船にしっかりと浸かって、息をつく。
 遠慮をし過ぎてしまった。
 そう。結局、汐が捻り出した数々の逆おねだりに、俺は応えてやることができなかったのだ。
 こうなったら、ちと強引路線で汐にコスプレをしてもらおうか。例えば――メイド服、巫女服、ナース服、ミニスカポリス、エトセトラエトセトラ……いやいや、それはあまりにも不健全すぎる。それに、頼んだら喜んで着そうで恐い。
 それともここは一週間ずれるが、今度の週末にどこかに行こうか。映画館は前に行ったから遊園地にでも……、
 高校生の娘とその父親が、ふたりだけで遊園地。
 なんというか、世間様一般とずれている感じだが、そこがまた俺達らしくて良いかもしれない。
 そこへ、風呂場のドアをこんこんと叩く音が響く。
「湯加減、どう?」
「ああ、いつも通りちょうど良いぞ」
 言うまでもないことだが、声の主は汐だった。湯船からだと曇りガラス越しになるのでその姿はシルエットでしか判別できない。
「背中、流そうか?」
「いいのか?」
「もっちろん」
「じゃあ、頼む」
「んー、ちょっと待ってね」
 そう言って、汐は服を脱ぎ出した。
 ……うーむ、影とは言えこれはまたなんとも、俺の情操教育に悪い。
 って、あれ?
「おい汐、タオルは?」
「え、いるの?」
 そう言って服を脱ぎ終わり、髪を掻き上げる汐。
 おいおい、おい。
「いや、ちょい待て汐っ!」
 その仕草の意味に気付き俺は慌てて、
「いーのいーの、遠慮しなくて」
「いやいや、遠慮とかじゃなくてだなっ」
「あ。おとーさん、タオルだけはちゃんと腰に巻いておいてね。目のやり場に困っちゃうから」
 お前がこれからやろうとしている事の方が、俺にはもっと困る。
 ええい、どうすればいいんだ。娘とは言え、あられもない格好を見てしまったら色々な意味で俺が危ない。ここは悪いが何としてでも止めて……そうだ。ドアに鍵をかければいい。そこにやっと考えが至り、俺は慌てて風呂場のドア下方にくっつているダイアル式の錠前に手を伸ばし――間に合わず、その扉は一気に開かれてしまった。
 ……視線は、逸らせられなかった。それだけは、渚に怒られても仕方がないと思う。
 目に映るは、玉のような肌――ではなく、どこか懐かしい濃紺。
 そう。汐は、水着を服の下の着込んでいたのだ。
「ドキドキした?」
 俺を見下ろす姿勢のまま、にっと笑って汐がそう言う。
「おーまーえーなー……」
 一気に湯船の中にまで後退して、俺。
「何? まさか、裸の方が良かったの?」
「なわけあるかっ」
 抗議とばかりに湯船に口まで沈めて、ぶくぶくとさせてやる。
「それじゃ、びっくりした?」
「吃驚というか――悪質だぞ、それ」
「ごめんね。そこまで驚くとは思わなかったから。でも……」
「――でも?」
「健やかに逞しく、そして色っぽく育ったでしょ?」
「……こいつめ」
 こつんと、頭の上に拳固を乗せる。
 俺が言った何気無い一言を実現させる。実に味な真似をしてくれる娘だった。
「さ、お背中流すわよ。おとーさん」
「おう、頼む」
「折角だから、背中、胸で挟んだスポンジで洗おうか?」
「んなことせんでいいっ!」
 赤くなって叫んでしまう俺。
 まったく、どこからそういう事を覚えてくるんだ、一体!
 ……そんなわけで、その日はいつもより早めに俺は風呂を上がった。
 理由は言うまでもない、いつもより早くのぼせてしまったからだった。

Fin.

あとがき

 ○十七歳外伝、父の日編でした。
 母の日と違って、父の日は若干マイナーなイメージがあります。
 百貨店なんかに行っても、母の日のそれより若干プッシュ力が足りないような感じを受けるのですが、何故でしょうね?
 さて次回は……未定でー。

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