古賀十二郎の生涯と素顔


写真左:40歳の十二郎(向かって左から二人目が十二郎。右端が斎藤茂吉。
写真右:県立図書館での十二郎(昭和28年、死去の前年)


十二郎の業績

長崎といへば まづ目にうかびくる
  古賀先生の 貂のえりまき(吉井 勇)

 古賀十二郎は長崎学の基礎を築いた市井の大歴史学者である。郷土史研究家の系譜をたどると必ず十二郎にいきつく。生涯をかけて残した長崎学の著書も膨大である。
 十二郎は明治12年5月16日生まれ。昭和29年9月6日、76歳で没した。生家は五島町の大店「万屋」である。「万屋」は代々筑前黒田藩長崎屋敷の用達してきた。
 明治28年、長崎市立商業学校を首席で卒業。十二郎は長商時代、菅沼貞風の「大日本商業史」と、呉秀三博士の「シーボルト」に長崎の歴史の深さを感じ、その一生を長崎の研究に向かわせたと言われている。
 その研究のためには外国語の修得が必須と思ったのだろうか、商業学校を卒業後、東京外国語学校(現・東京外国語大学)に学ぶ。同級生に永井荷風、1年先輩に有島生男がいた。
 外国語学校を23歳で卒業後、広島で3年間ほど英語教師を務めた後、長崎に帰り稼業を継ぐ。しかし稼業よりは長崎学の研究に専念したようで、帰崎するとすぐに「長崎評論」の創刊や、第一期長崎史談会を作るなどその活躍が始まる。

 十二郎の生活は昼夜が完全に逆転しており、昼間は寝て夜、研究を続けていたのは小説にもある通りである。大正時代には長崎市史編纂事業が始まり、十二郎は編集主任となり3年の年月をかけて「長崎市史風俗篇」を完成させた。内田魯庵が朝日新聞紙上で、この「長崎市史風俗篇」を沼田頼輔の「日本紋章学」、高野辰之の「日本歌謡史」と並んで日本三大名著と絶賛したのは有名な話である。
 このほか、十二郎の著述した書籍・文献は数多く、「西洋医術伝来史」「長崎と海外文化」「長崎絵画全史」「長崎開港史」「丸山遊女と唐紅毛人」「長崎洋学史」などがある。いずれも長崎学の後進を先導する名著である。
 現在も十二郎のライフワークとも言える「長崎外来語集覧」の刊行プロジェクトが進行している。「長崎外来語集覧」は、十二郎が明治末から執筆を開始し、昭和29年の亡くなる直前に脱稿したものである。


十二郎の素顔

 十二郎はたいへん個性的な人物であったようである。
 長崎商業の同級生が長商75年史に寄せた一文には「そのころの生徒はラシャの外套に金ボタンと、いきな服装をしていたが、古賀は和服に短いはかまをつけ、勉強ばかりして、あまり人と物を言わない男だった」とある。
 また古賀は無欲の男だった。多くの学者がその実力を評価し、再三博士論文の提出を勧め、またオランダのライデン大学から教授としての招きを受けたにもかかわらず、肩書き無用と在野で一生を終えた。さらに晩年、貧困と老体にムチ打つ古賀翁を長崎市は名誉市民に推薦したがこれも固辞した。受けた賞としては、大正9年、日蘭親善に尽くしたとしてオランダ女王からもらったオラニエ・ナッソウ勲章と、西日本新聞社から長崎における近世文化史研究の功績で贈られた西日本文化賞ぐらいだ。
 いっぽう、研究のためには金を惜しまず、花街風俗史研究のために連日、芸者・舞妓を従えての調査を繰り返したのは小説にある通りである。
 晩年の十二郎を悲運に追いやったのは原爆であった。家屋敷、膨大な蔵書も灰と化した。戦後は大村市の九電の旧工員宿舎(息子さんが九電勤務であった縁か)に引き込んだままだった。永島正一氏は「傾いた住宅の一室でひげぼうぼうの古賀翁は、うずくまるようにして小机に向かい、せっせと原稿を書いていた」と記している。
 その後長崎に帰ったが、経済的に困窮していた十二郎が心のよりどころにしていたのは県立図書館であったという。
 昭和29年9月6日、西山の九電寮・梅屋敷の一室で寂しくその生涯を終えた。戒名は十全院文徳日正大居士、本蓮寺に葬られた。
 十二郎の一生は波乱万丈であったと言われているが、左手の甲には“忍”の入れ墨があった。短気であった自分を戒めるものであったのだろう。

 十二郎の偉業を讃えて、昭和45年、西山の県立図書館の一角に記念碑が建立された。大理石にブロンズの肖像がはめ込まれているという。

港あり 異国の船をここに招きて 自由なる町を開きぬ
歴史と詩情のまち長崎 世界のナガサキ

 この巨人・古賀十二郎はたいへん背が低い人物であったらしい。晩年の十二郎は、好々爺然として、後進・教え子にものを訊ねられると、にこにことして答えていたという。

 なお、十二郎の直系の曾孫が、新大工町で洋装店を開いているという。

【参考資料】
・「長崎ものしり手帳」永島正一著(葦書房)
・「長商群像」西日本新聞社刊


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